哲学者・作家である千葉雅也氏の『センスの哲学』が、現在6万5000部(紙の書籍+電子書籍)を突破と好調だ。いま、本書を読む醍醐味はどこにあるのか? 寺子屋ネット福岡代表で、日々10代の子どもたちと学ぶ現場に身を置き、近著に『学びがわからなくなったときに読む本』(編著、あさま社)がある鳥羽和久氏が、千葉氏のラディカルさを読み解く。
生成AI時代の「判断力」のリアルとその育て方
『センスの哲学』(千葉雅也著)は、従来の「意味」や「目的」に依存した芸術や表現の理解に一石を投じ、より直観的・感覚的なフォーマリズムに新たな意義を与える挑戦的な試みです。
この一文は、ChatGPTに僕が作成した『センスの哲学』の書き抜き(合計2000字程度)を提供した上で、「この本についての簡潔な紹介文を100字以内で作成してください」というプロンプトを差し出した結果、出力されたもの。気持ちがいいほど的を射ています。
なぜ唐突にこんな話を始めたのかといえば、本書がChatGPTのような生成AIの本質的な構造と動作原理を理論的に応用した、先駆的な書物であると感じたからです。千葉は生成AIがビッグデータをデータそのものとして生成モデルに変換する特性に着目し、その動作に、意味や目的から離れてものごとをそれ自体として捉えること、リズムとして楽しむことの雛形を見出します。
生成AIは、データの抽象化、要素の羅列、反復の中にランダムな差異を含めることを得意とし、その過程で思いもよらない分節化とリズムを多様に生み出します。その面白さに気づいた著者が、生成AIから得た着想を存分に発揮しながら、現代の「判断力」のリアルとその育て方について丁寧に解説したのがこの本と言えそうです。
ただし、本書は生成AIの利便性を過度に期待するのではなく、あくまで生成AIをヒントにした新たな思考のしかたをその応用とともに平熱で提案する姿勢が貫かれています。この平熱の感じは、生成AIはどこか人間に似ている、という気づきと関連していて、その気づきが実は人間の思考そのものに対する批評になっているところが、この本のきわめて興味深いところです。
「文化資本の特権性」の脱構築――判断力のポイントを後から学ぶことは可能だ
タイトルに含まれる「センス」という言葉は、多くの人をドキッとさせるものです。なんだか私のコアの部分が試されているな、という感じがする。本書にもあるとおり、センスとは「直感的にわかること」ですから、逆にわからない人は死んでもわからないからはじめから論外という感じになってしまう。さらに、センスにはこなれ感みたいなものが不可欠で、そうなるとどうしても幼い頃からの文化資本(どれだけ物量的に「よいもの」に触れたか)に左右されてしまう。こういう風に言うと、センスというのはとても特権的ですよね。
この本のユニークさは、このような文化資本の特権性について反省的な身振りを提供するのではなく、「文化資本の形成とは、多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作ること」と動的に脱構築した上で、その生成と効果に焦点を当てている点にあります。そして、「判断力のポイント」を学び、それをもとに再出発することで文化資本のある人(すごい量をこなしている人)に対抗することは後からでもある程度可能であると述べ、さらに、「民主的な教育というのはそういうことではないでしょうか」と付け加えています。こうした視点には、目を開かれる思いがしました。
このことを踏まえると、本書は読者が「判断力」をライフハック的に得て文化資本の差異を埋めることで、フラットな民主化を促す教科書と言えそうです。ただし、これはけっして「文化資本を持っている人間はエライ」という話ではありません。千葉の仕事の特徴は、いわゆるインテリの価値を尊重しつつ、同時にその反面にある別の価値、いわば「ヤンキー性」みたいな側面にも関心が向けられている点にあります。これらを両立させる視点を持つことは、千葉の作品を読むためのコツみたいなものです。
センスを育てるとは、人生の機微を味わう回路を作ること
繰り返すと、文化資本の形成には「多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作る」効用があるわけで、それは本文中の言葉で言い換えれば、「どこかに「問題」があること」をむしろ楽しむことができる回路が開かれるということです。これは人生の機微を味わうことに通じており、もし教育がそこに関与できるとすれば、こんなにうれしいことはないと、教室で日々子供たちと過ごす僕などは思ったのです。
本書では、「センスがある」ことと「センスが無自覚」であることが対置され、ラウシェンバーグの絵画などを例に、「センスに自覚的になる」方法が具体的に提示されています。だから、これを読んで、美術館における絵の見方が変わったり、音楽や絵画にとどまらずあらゆる造形や文学の中に「うねり」と「ビート」を伴ったリズムを見出したりと、芸術鑑賞をとおして実際に「センスに自覚的になる」人が多出するでしょう。
しかし、本書が伝える効果は芸術だけではなく、日常生活にも直結しています。生活の中にはじめから当たり前のようにある「芸術と生活をつなげる感覚」に気づくことによって、僕たちの日常生活にささやかな変革がもたらされるのです。ラウシェンバーグの絵画や保坂和志の小説が登場するのも、その「センス」を磨くための実践的な演習の一環です。
感情的な共感が優先されるネット空間。そこで生まれがちな「傷の共同体」
現在のネット空間がいわゆる脊髄反射的であり、感情的な共感が優先されている点については、多くの人が指摘しています。ネットというツールの普及によって、自分と似た「傷」を持つ人を簡単に見つけられるようになり、共通の敵を見つけて攻撃性を高める「傷の共同体」が生じやすくなりました。こうして、共感の共同体に執着する中で、新しい社会的正しさに自分の痛みを重ね、自身のアイデンティティに正当性を与えようとする人が増えました。それはしばしば、彼らが本来は憎んでいたはずの権力構造を内在化してしまっているかのようにも見えます。
この状況下で、いつしか自分のうらみつらみが他人に吸収され、個々の傷が他者に乗っ取られても気づかない状況が生まれます。もしくは、気づきながらも、その自己疎外の苦しみを他者への攻撃として発散し、自らの痛みを意識しないようにさえしてしまいます。
こうした、自分独特の感覚を手放した後の「傷」は、本当にその人のものなのか疑問が残ります。こうして個々の心の痛みさえも、他者の視線や目的のための手段となり、空洞化してしまうのです。文学やエンタメの世界でも、社会的正しさに自分の傷を重ねた作品が増えているのは、まさにこの現象の反映でしょう。
『センスの哲学』は感情優位の社会に対する抵抗の実践を説く
千葉は以前、自身の小説の要素を「「脱葛藤化する」ことにすべてがある」と発言していて、これはきわめて示唆的です。つまり、ものごとを意味的に目的的に、もっと言えばゴシップ的に捉えるのではなく、フォルマリズム的にそっけなく見ること。ここに「脱葛藤化」のヒントがあり、ファッショな感情優位の社会に対する抵抗になる。そのことを描いたのが千葉の小説であり、さらにそれを読者が実践できるように示したのが本書ということになるでしょう。「傷」に表象されるような葛藤をまずは手放すことを、千葉の仕事は僕たちに教えてくれるのです。
このように、あらゆるものごとを別のしかたで見ることは、読者にとってアテンション・エコノミーに抵抗する「生活改善運動」であるとともに、事務的な手続きの風通しをよくするビジネス改善運動でもあり、さらに「非戦」を唱える以上の波及的効果が期待できる平和運動でもありえるはずです。
最後に、本書では「センスがある」ことと「センスが無自覚」であることが反転し、「アンチセンス」という視点が提示されます。この「アンチセンス」とは、その人特有の「どうしようもなさ」、つまり生成AIには真似できない個性が表れる部分であり、芸術と生活をつなぐ鍵ともなるものです。僕たちは、その「アンチセンス」を通して、自己目的的な「センス」を見つけ出せるかもしれません。それは、例えば、誰かのピアノの一音にその人自身を感じ、無意味な中に深い意味を見出す瞬間に似ています。
-
『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/17~2024/12/24 賞品 『リーダーの言葉力』文藝春秋・編 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。
提携メディア