
私が初めて窪さんと話をしたのは、二〇二一年二月の初旬頃だった。
その日のことをよく覚えている。窪さんと私が会話をしたのは(今のところ)その一度きりで、しかも私たちは今日まで一度もお会いしたことがないからだ。
リモートでの対談だった。私は一作目の小説を刊行してからまだ半年ほどしか経っておらず、「先輩作家との対談」という仕事も、もしかするとこの時が初めてかもしれなかった。
窪さんは、自身初の新聞連載である『ははのれんあい』を単行本化したタイミングだった。画面越しにお会いする窪さんは、後輩である私に偉ぶる様子も見せずに、実に穏やかな口調と表情で、時に楽しそうに小説について語った。その一方、物語を描ききることへの執念と矜持のようなものは画面越しでもひしひしと感じられ、その姿勢に強く胸を打たれたことを、今でも鮮明に覚えている。
二〇二一年の日本は、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の真只中にあった。ライブハウスや劇場などの娯楽施設には入場制限がかけられ、飲食店は酒類の提供に関して自粛要請が出た時期もあった。花見会場に使われる公園は立ち入り禁止になり、海開きも花火大会もその多くは実施されなかった。街に人はいなかったが、労働だけは続けられていて、電車に乗れば働く人の姿だけはそこにあった。前年には、逼迫する医療機関を励ますために、ブルーインパルスが空を飛んだ。そのお金があれば救えたのではないかと疑いたくなるお店や人が、静かに姿を消し始めていた。
すべてが歪だった。そんな状況にあって、私と窪さんの対談も、本来は対面を予定していたものが、急遽リモートに切り替わって行われた。そして窪さんは、その当時から本書に収録された短篇を書き進めていたことになる。
完成した『夜に星を放つ』は、コロナ禍の閉塞的かつ悲観的な空気を吸い込みながら、しかし確かな普遍性を持って生まれた作品となった。
収録されている五篇はすべて単行本より先に「オール讀物」に掲載されたものだ。掲載年を確認すると、「湿りの海」は二〇二〇年、「真夜中のアボカド」「星の随に」は二〇二一年であり、三篇とも、コロナ禍によって際立った孤独と寂しさを強く感じさせる。対照的に、二〇一九年より前に発表された「銀紙色のアンタレス」と「真珠星スピカ」には、喪失の中にも開放感や温かさ、コロナ禍以前の人との距離の近さが描かれていて、前述の三篇とは違った印象を与えている。
これらの執筆時期の違いが一冊の中に重層的な魅力を付加していることは前提として、その一方で、五篇に共通して描かれているものもある。たとえば、別れだ。
「湿りの海」では、主人公の愛する娘と妻がアメリカのアリゾナ州に旅立ってしまったことから物語が始まり、その影を重ねるようにして心の拠り所にしていた隣人の親子も突然いなくなってしまうことで、二度の別れが主人公の孤独をより一層強調させている。「星の随に」では、窮地を救ってくれたおばあさんとの別れや、実の母親と一緒に暮らすことができない悲しみからくる少年の孤独と成長が描かれて、「銀紙色のアンタレス」では、告白してくれた幼馴染みや好意を持った年上の女性との別れが読者を感傷に浸らせる。
「真夜中のアボカド」と「真珠星スピカ」では、登場人物の死にまつわる描写がある。なかでも「真夜中のアボカド」は、コロナ禍において、その数年前に大切な双子の妹・弓が亡くなったところから始まる物語だ。
弓の死因については思うところがあった。
これはあくまでも憶測に過ぎないが、窪さんは本作の登場人物の死因に、あえて新型コロナウイルスを選ばなかったのではないか。
文学は時に、現実世界の苦しみを真っ直ぐに描くことで読者を救ったり、権力や時流に警鐘を鳴らす役割を果たしたりしてきた。実際、過去の窪美澄作品にも、現実の悲劇や事件に触れた作品がいくつかあり、それらは広く受け入れられている。
しかしその一方、モチーフの扱い方によっては、作品はとても無遠慮で、加害性を孕んでしまう可能性がある。二〇二一年における新型コロナウイルスは、まさにその最たる例と言えた。世界中で多くの人が、この時期に亡くなった。私の知人も、そのうちの一人だ。少なくとも窪さんが本作を執筆していた二〇二一年当時において、この悲惨な現状を大衆小説のモチーフにすることは、誰かの傷を広げ、悲しみを増やしてしまう可能性を持っていたことは間違いない。そして、窪さんは今作において、今はまだそうすべきではないと、判断したのではないか。
結果的に本作は、コロナ禍という特殊な時代性を背景にするものの、その絶望を過剰には描き切らない、切ない余白を残した作品となった。この余白こそが、物語に品位と余韻をもたらし、なにより読者の想像力を掻き立てることに一役買っている。登場人物は多くを語りすぎず、しかし読み手はその表情ひとつから、苦悩や怒りや疲労や悲しみを感じ取り、より深く物語の世界に没入することになる。
ずっと寂しい。簡単には希望が見えない。それなのに心地よい。濃い影から強く光を感じるような、不思議な読み心地がいつまでも続く。多くの窪美澄作品に共通するものが、今作でもう一段階、深みを増した印象がある。
もう一つ、全編を通したモチーフとして描かれるものに、星と星座がある。
最終話の「星の随に」では、〈火の上にはきっと星座が光っていたんでしょうけど(中略)炎の熱と熱さで星座もほどけてしまったんじゃないかしら〉と語られ、さらには〈雲に隠れていたって、星と星とは見えない糸でしっかりと結ばれて、星座の形を保っている〉と締め括られる。ここでいう「星」は登場人物たち自身であり、「星座」はその関係性を表す。単体できらりと輝く星もあれば、星座という星の位置関係を持ってはじめて認識されるものもある。「真夜中のアボカド」では亡くなった双子の妹と主人公を双子座に見立てて語られ、「銀紙色のアンタレス」では告白してきた幼馴染みと海で出会った年上の女性との関係がそれぞれ一等星のように瞬きながらも、星座のように意識しなければ途切れてしまいそうな距離感で描かれる。
家族も、友人も、恋人も、コロナ禍以降の世界では簡単に関係が途切れてしまう危うさがあることを、私たちは散々思い知らされた。窪さんはその絶望を星座というモチーフを用いて表現し、また同時に、人と人は物理的な距離とは無関係にゆるやかに繋がっていられることも、星に希望を込めるようにして描き上げた。
二〇二二年に刊行された本作で、窪さんは第一六七回直木三十五賞を受賞した。
私は一読者として、そして一後輩として、この受賞を大いに喜んだ。満を持してとはまさにこのことと、多くの人が語った。日頃から読書に慣れ親しんでいる人には、窪美澄という作家の実力は直木賞を獲る前からすでに十分に認知されていたように思う。窪さんは、初の著書である『ふがいない僕は空を見た』でいきなり山本周五郎賞を受賞し、同作で本屋大賞第二位にも選ばれるという、類を見ないスタートダッシュに成功した作家だ。その後も『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を、『トリニティ』では織田作之助賞を受賞しており、さらには『やめるときも、すこやかなるときも』や『じっと手を見る』などの力作を精力的に発表してきた。デビューから十五年。ずっと読者を魅了し続けている書き手である。
そして、本作に辿り着いた。
登場人物たちは、ある時は目の前の絶望から目を背けるように、またある時は愛しかった過去を思い出すように、星空を見上げる。
星や空。それは、『ふがいない僕は空を見た』の頃から幾度となく描かれてきた、窪美澄作品における重要なモチーフである。初の著書のタイトルがそのまま伏線のように、または夜空に浮かぶ星座のように、今作『夜に星を放つ』まで繋がって今に至ることは、偶然よりも運命により近く感じるのは私だけだろうか。
季節によって視認できる星座が変わるこの世界では、冬が訪れるたび思い出す過去も、夏が来るたび浮かび上がる景色もある。本書を手に取ったあなたが、次にまたこの物語を読むとき、夜に放たれた星たちは、どのように映っているだろうか。
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