小説は時代の鏡であるという。
そこにあるものをただ写し取るだけではない。物語として再構築された世界は、読者の目にはまだ入っていないもの、未来の予想図までも描き出すことがある。本書は雑誌発表された現代小説の短篇を編んだアンソロジーであり、世相がこの一冊に凝縮されている。本書を読めば二〇二四年がどういう年であったかがおぼろげに見えてくるはずだ。
社会の分断が進み、持てる者と持たざる者の格差はいよいよ広がった。余裕が失われていく中、他責・他罰主義が横行し、正義の名の下に他人を傷つける者も少なくない。優しい心の持ち主であれば、傷つかずに生きていくことは難しいだろう。その中でもまだ希望は見いだせるはずだという願いを、作家たちは胸に抱いて小説を書き続けている。
以下、収録作について解説していきたい。
篠田節子「土」(「小説新潮」1月号)
二〇二四年の短篇小説界はこの作品で幕を開けた。訪問看護師の岡野真奈美は、余命三ヶ月の告知を受けた末期がん患者である緒方を担当する。老人は、医師の勧めを聞かず、家に居続けることにこだわっていた。彼が先祖から受け継いだ農地を耕作するためである。
医療小説に分類される作品である。残された時間をいかに充実したものにするかというQOLの問題を描いた小説かと思いきや、緒方の人生の知られざる一面が後半で明らかにされると物語の様相は急変する。自分を自分たらしめているものを守ることに執着し続けた果てに、緒方の現在はある。そのことを岡野は知るのである。短篇は人生に伴走するのではなく一瞬の切断面を見せる技法だが、「土」で篠田は、緒方が終末期に見せた振舞いから彼の人生の全体像を浮かび上がらせることに成功している。圧倒的な筆力のなせる業だ。
佐川恭一「万年主任☆マドギュワ!」(「小説すばる」6月号)
正統派とトリックスターで、いきなり対照が際立ちすぎる並びになっている。佐川は二〇二〇年代を代表する一人で、諷刺性の高い短篇を精力的に発表し続けている。思わず破顔してしまうギャグを入れて文章のリズムを作る書き手なのだが、自分自身や世代を笑うような笑いも織り交ぜ、結果として同時代性のある物語を描き出していくのが特徴である。本作の主人公・宍戸康雄は公務員で、あまりにも仕事ができないために職場では窓際どころではない疎まれ方をしている。唯一の愉しみが文学書を読むことなのだが、あることがきっかけで訪れた図書館で起きた奇跡に巻き込まれるのである。
ある長寿作品のパロディになっている、ということは題名を見れば判る人には判ると思う。元ネタが何かは伏せておく。完全なコピーぶりに感心した、とだけ書いておこう。
斜線堂有紀「カタリナの美しき車輪」(「小説新潮」8月号)
笑える短篇の次はホラーを。二〇二四年に読んだ中で最も怖い短篇だったのではないかと思う。怖さにもいろいろある。「カタリナの美しき車輪」のそれは、一度嵌まったら絶対に逃げられないのではないかと思わされる拘束力にある。長篇だが、鈴木光司『リング』(角川ホラー文庫)を読んだときの絶望感に近いものをこの作品で味わった。
本篇が恐ろしいもう一つの理由は、SNSという現代人にとって身近なものが題材となっている点である。中高一貫のミッションスクールである聖カタリナ愛心学園を卒業した〈私〉こと戸高亜純は、教員の不注意な投稿によって母校がネット炎上に巻き込まれたことに心を痛める。なんとか事態を打破しようとして彼女が考えついた妙案は、予想だにしなかった事態を引き起こすのである。どんどん加速がついていく終盤の展開は圧巻である。
佐々木愛「僕たちは のら犬じゃない 番犬さ」(「小説宝石」9月号)
佐々木愛は、デビュー短篇集『プルースト効果の実験と結果』(文春文庫)から、一貫して他にはない独自の物語世界を生み出してきた作家である。どの作品でも、どうしてそこに目をつけたのか、ユニークな着眼点にまず目を瞠らされる。驚きの次に来るのは、しみじみとした共感だ。佐々木の描く登場人物たちはみな、うまく折り合いをつけることが下手である。本篇の主人公である〈わたし〉は人と話すことが苦手な小学生で、自分の意志を伝えるために大きな声を出さなければならない学校に居づらさを感じていた。同じ悩みを持つ鈴木くんという少年とだけは、唯一連帯することができたのである。
成長した〈わたし〉の元に無言の電話がかかってくる書き出しから、優しい語りに胸を掴まれる。ほんのりと可笑しく、読み終わった後になぜか涙がにじむ。
坪田侑也「放送部には滅ぼせない」(「小説新潮」10月号)
体育祭の準備に浮き立つ時期の高校を舞台とした青春小説である。主人公の村井航成が属している放送部には、三年生の彼と二年生の芝以外に活動している部員がいない。弱小文化部を描いた青春小説には好きなものが多いので期待して読んでいると、意外なことが起きる。体育祭BGMのリクエストを受け付けるための箱を設置していた。その中に、体育祭が憂鬱なので滅べばいい、という内容の匿名投稿が入っていたのだ。穏やかではない内容のため、航成たちは投稿者が誰かを調べ始める。
ミステリーとしての完成度が高く、伏線埋設の技巧が素晴らしい。坪田は十五歳で書いた『探偵はぼっちじゃない』(KADOKAWA)で二〇一九年にデビュー、学業と並行して小説を書き続けてきた。若年ながら安定した実力の持ち主である。
宮下奈都「鳶の娘」(「オール讀物」11・12月号)
主人公の〈私〉、戸田未来が高校から帰る途中で嫌がらせをされる。加害者たちは、彼女が王の娘だから、という理由で行為を正当化しようとするのである。王とは何者かということは半ばブラックボックスに入った形で話が進む。どうやら反社会的と見なされる存在らしい。その娘は何をされても文句は言えないはず、という社会の敵叩きの図式なのである。しかし〈私〉には自分が王の娘であるという心当たりがない。
真田くんというクラスメイトが登場し、王の娘でないのなら疑いは晴らしたほうがいい、と勧めてくる。しかしそれは本当なのか。なぜ被害者側が身の証しを立てなければならないのだろうか。本作で宮下は、この社会に罷り通っている正義を名乗る行為の危うさを描いた。しっかりと前を向いて生きようとする主人公に勇気づけられる読者は多いだろう。
坂崎かおる「花泥棒」(「小説推理」12月号)
坂崎は短篇集『箱庭クロニクル』で第四十六回吉川英治文学新人賞を授与されるなど、二〇二五年現在、最も注目されている作家の一人だ。SF・ファンタジーを得意領域とするが、それに留まらずに幅広く、読者の心を捉える物語を書き続けている。
「花泥棒」は変わった作品で、〈私〉と名乗る人物が〈あなた〉に語りかける形式で話が進んでいく。〈私〉は〈ヘルメス〉という体に装着する機器のカスタマーサポートとして働くイガラシミキコであることがやがて明かされる。しかし、それが判っても語りが持つ意味は読者には見えてこないのである。語りの進展と共にそれが少しずつ可視化していくサスペンスが本作の持ち味だ。作中で用いられるSF的設定に題名は由来しているのだが、描かれるのは現実と地続きの世界で、錐で突いたような鋭い痛みを残して物語は終わる。
窪美澄「凪のからだで生きていく」(「小説野性時代」特別編集2024年冬号)
誰もが幸せな人生を送りたいのに、見えない頸木に抑え込まれてそれが果たせずにいる。窪は、現代に生きる人の苦悩を描く作家であり、本作でも美点が遺憾なく発揮されている。
語り手の〈私〉は一人暮らしをして東京の大学に通っている。遠く離れた故郷で彼女は、いつも息苦しい思いをしてきた。女性は家庭に入って子を産むのが義務、と考えられているような土地で、そこにいると枚方瑞穂という個人が存在する意味は無化されてしまう。地方出身者として東京の暮らしに馴染めずにいる部分もあり、瑞穂の心は揺れ続けている。
現代に生きる女性を優しく応援するような小説で、生活の詳細が丹念に描かれることにより、枚方瑞穂という主人公が確固とした身体を持った人間として立ち上がって見える点が非常に好ましい。日々の暮らしに見出すことのできる小さな救済の小説とも言える。
米澤穂信「輪廻の果てまで愛してる」(「紙魚の手帖」12月号)
今回の収録作で最も紹介が難しいのが掉尾を飾る本篇だ。第百六十六回直木三十五賞を受賞した『黒牢城』を初めとする著作の数々はあまりにも有名で、今さら解説の必要もないくらいである。〈古典部〉〈小市民〉といったシリーズものが最も読まれている作品だと思うが、案外知られていないのが、米澤は独立した短篇の名手でもある、という事実だ。そうした作品を収めた短篇集に『満願』(新潮文庫)などがある。未読の方はぜひお試しを。
本篇は原稿用紙換算で二十枚に満たないという小品なのに、ミステリーとしての結構を十二分に満たした内容で驚かされる。〈あたし〉という女性の一人称で語られる小説で、どうしてそういう叙述形式なのかを含めた謎が、残り数行というところですべて解き明かされる。滝壺に落とされるかのような感覚を味わった。短篇、かくあるべし。