この唯一無二の筆致を味わってほしい……令和最注目の恋愛小説家・佐々木愛の新境地! 人生の奇跡ときらめきを描く連作集『じゃないほうの歌いかた』から第1章「池田の走馬灯はださい」冒頭を大公開
- 2025.08.26
- ためし読み
ジャンル : #小説
『プルースト効果の実験と結果』で鮮烈なデビューを飾り、青春/恋愛小説界にその名を轟かせた佐々木愛さん。最新作『じゃないほうの歌いかた』が、2025年8月27日に発売になりました。
デビュー作の表題作は杉江松恋氏に「2018年恋愛小説短篇のベスト」と評され、第二作『料理なんて愛なんて』は第1回本屋が選ぶ恋愛小説大賞にノミネートされるなど、令和で最も注目されている恋愛小説家です。
最新作の舞台は、落合南長崎にある独立系カラオケ店「BIG NECO」。うだつのあがらない凡人たちの、人生の奇跡ときらめきを描く連作集です。一度読んだら忘れられない、佐々木愛さんの唯一無二の筆致を感じてもらうべく、第1章「池田の走馬灯はださい」の冒頭を公開します。
池田の走馬灯はださい
「カラオケのイメージ映像に出ていそうな女」と言われたことが、二度ある。
一度目は十八歳のときで、二度目は二十二歳のときだ。「あれに出ていそう」というのは、すなわち、「ださい」と言われているのだと思う。二度目のあとからカラオケに行けていない。大げさかもしれないけれど、わたしはカラオケ恐怖症と呼ぶ。
今は会社員をしていたころと違って、コンビニ型の小さなスーパーマーケット店アルバイトという身で、強制的にカラオケへ連れていかれる機会はまずない。安心していたところに、やつはまた忍び寄ってきた。きっかけは、ジョブズ忌だった。
「あしたの遅番、僕と池田さんと昭一さんなんですよね」
入れ違いでシフトに入る、学生アルバイトの平畑くんが言った。
「そうですね」
と何気なく答えると、
「あしたですよ、ジョブズ忌」
平畑くんは付け足した。
てきぱきしている彼は、緑色のエプロンを着けるのも素早い。新宿から地下鉄で十分と少しのこの辺りには他に安いスーパーがなく、店が狭いわりに多くのお客さんが来るので、平畑くんのような仕事が早いアルバイトは重宝されている。
「ジョブズ忌って、スティーブ・ジョブズが死んだ日ってことですか」
とわたしは尋ねた。
「あれ、池田さんって去年のジョブズ忌、まだここにいなかったんでしたっけ」
「はい」
昨年の夏、新卒で入った前の職場を辞めた。前後の数か月はどう過ごしてきたか、記憶にもやがかかったようでうまく思い出せない。
「そうでしたっけ。昭一さんが十月五日、ジョブズの命日のことを、ジョブズ忌って呼んでるんですよ」
昭一さんといえば、三十代半ばに突入したと噂されているベテランアルバイターだ。なぜか名字で呼ばれるのを嫌がり、なにかにつけ、スティーブ・ジョブズと矢沢永吉の話をする。
「昭一さん、ジョブズが故人だって知っていたんですね」
ロッカーの鍵を閉めてから応じた。わたしは実は、昭一さんってジョブズが八年前にこの世を去っていることを知らないのではないか? と、ずっといぶかしんでいたのだ。
「昭一さん、いつも白い靴下なのに、ジョブズ忌だけ黒い靴下をはいて来るんですよ」
「そ、そうなんですか」
従業員は、緑色のエプロンと三角巾だけ支給されている。ほかは白シャツ、黒いスラックスが指定だが、靴下は自由だ。昭一さんの靴下の色に注目したことは、そういえばなかった。
「それでジョブズ忌は、帰りにうかうかしているとカラオケに誘われるんですよ。池田さんも覚悟しておいたほうがいいですよ」
平畑くんは言い置いて、売り場へ出ていった。
昭一さんは、誰とでも平和に関係を築く平畑くんだけでなく、わたしのことも何かと気にかけてくれる。独り身かつフリーター、学生アルバイトとつるまない、接客が苦手、という共通点があるからだと思う。アルバイトの間で平畑くんとわたしが「昭一会メンバー」と呼ばれていることも、先日平畑くん伝いで知った。
残されたバックヤードで、平畑くんのように何事も器用にこなす人間は、カラオケのイメージ映像に絶対に登場しなそうだな、と考えた。
もともと、ひとりで行くカラオケは好きな方だった。東京に出る前の高校生のころには、カラオケ店で受験勉強をしていた。東北のすみの小さい町で、高校生が自力で行ける範囲に勉強できるようなカフェや図書館はなかったからだ。
母は、母自身も生まれ育ったそのいなかを、何かにつけ「ださい」と嫌った。だからといって都会に憧れているわけでもなさそうで、住んだことのない東京のことは地獄みたいに悪く言った。わたしが都内の大学に行きたいと話したときも、そのために勉強していたあいだも、合格したあとも、こっちで就職すると告げたときも、いまも。
東京の空気は汚れているでしょう。東京は星がないでしょう。東京は緑がないでしょう。東京は人が冷たいでしょう。東京は人さらいが多いでしょう。東京は詐欺ばかりでしょう。東京は地震がきたら終わりでしょう。あなたが東京なんか行ったって、ださいいなかの女の子って言われて終わり。
母の言う「ださい」は、怖かった。
小さいころ、買ってほしいと頼んだ文房具や服に「ださい」と難色を示され、結局は母が選んだ別のものを買うことが多かった。テレビから流れる流行の応援ソングにわたしが密かに心震わせていたときも、母は「ださい歌詞」と笑っていた。「ださい」はだんだん、その一言で何をどう頑張ったって全部無駄になるような、呪いの言葉になった。
ださいものを嫌悪しているらしい母だったが、わたしから見れば母も筋金入りにださかった。一番いやだったのは、果汁100%のオレンジジュースを水で薄めて出すところで、
「半分に薄めたら二倍飲めてお得でしょう」
というのが母の理屈だった。飲む直前に水道水で薄めるから、冷蔵庫で冷えていたジュースもぬるくなった。
いなかや母や、薄いオレンジジュースから離れたら、「ださい」から逃げられるとわたしは思っていた。そのために必要なのは、勉強だった。華やかな東京の、志望大学に合格することを目指した。
受験勉強に使っていたカラオケ店は個人経営で、国道沿いの巨大なパチンコ店の二階に入っていた。両脇が田んぼばかりの道を自転車で二十分まっすぐ漕ぐと行けた。
一階のパチンコ店にはそれなりに人がいたが、カラオケ店はいつも空いていて、高校生なら格安だった。
たいてい、一番狭い部屋に案内された。パチンコの「パ」と「チ」のネオンの上にある煙草臭い部屋で、窓の曇りガラスから「パ」の発する赤色と「チ」の発する橙色の光がもやもや入り込み、いつでも夕方みたいだった。
ドリンクバーも、そこにはない。うす暗い受付に常に座っている八十代くらいの店番に最初に一杯、注文する。一番安いウーロン茶を受け取ったあと、部屋に入ってまずは参考書やノートを広げる。それから電子目次に手を伸ばして、「東京」を探した。
「東京」というタイトルの曲は、無数にあった。歌を作る人の数だけあるんじゃないかと思えるくらいにあった。いつもランダムに十曲を予約し、BGM程度の音量に落としてかけると勉強は捗って、母の声も薄いオレンジジュースの味も、だんだん遠ざかる気がした。あと少しでわたしもそっち側へ行くのだと思うと、疲れも苦ではなかった。十曲終わるとちょうど一時間ほど経っているので、休憩してからもう一度繰り返した。
大学に無事受かって上京したあとも、カラオケへは通った。入学式の前日、アパートに届いた荷物をほどき終わるとお腹が空いていて、何か食べようと駅前まで出たとき、有名チェーンのカラオケ店を見つけた。
故郷のとは明らかに違って、空腹を忘れて見入った。細長いビルの三階にあって、青い看板がまぶしく光っている。東京で「東京」を聴いたらどうなるんだろうと思いながら、吸い込まれていた。
自動ドアを抜けた途端、よく通る声の店員から「いらっしゃいませ」が飛んでくる。カラオケの機種が選べ、貸しコスチュームや広いパーティールームもあるという。若い騒ぎ声が、奥のほうから響いていた。わたしは、地元にはなかった禁煙ルームを選んだ。
煙草のにおいがせず、「パ」と「チ」の色も入り込まないその部屋は、受験で泊まったビジネスホテルのようで緊張したが、いつものように「東京」を検索し、十曲予約した。前奏が始まると、とんでもなくいいことがこれから始まる気がしてきて、そのまま声を出してみた。メロディーを覚えるくらい聴いていたのに、歌うのは初めてだから、歌詞に集中した。
さっきのきびきびした店員に届いてしまうのが嫌で、マイクの電源は入れなかった。響かない素の声を張り上げると三曲目から声が嗄れたが、十曲歌いつくした。
終了時間の十分前になると、店員さんから内線がかかってきた。それも地元ではないサービスだった。
歌うのに夢中で、ドリンクバーまで気が回らなかった。喉がからからのまま店を出て、帰りにコンビニでパックの100%オレンジジュースを買い、ストローをさし、飲みながら歩いた。冷たくてすっぱくて、使いすぎた喉と空っぽの胃に染みていく。おいしくて、あっという間になくなった。
ほんとうに今までと全然違う街なんだ、歌えるし、100%のオレンジジュースが飲める――。
二十二時を過ぎているのに、コンビニや自動販売機や車のヘッドライト、やたらある街灯であたりは明るく、世界そのものの暗さが減ったような気がしていた。
すぐに「ださい」に追いつかれるとは、まだ知らなかった。
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