篠田さんには二度、殺されたことがある。まず細貝(ほそがい)で。次に、さやかで。名字の時は登場人物の一人にすぎず逝き方もあっけなかったが、ファーストネームの際は狂喜した。心の底から衝撃を受けた短編のヒロインだったからだ。単なる偶然か、名刺ホルダーから適当に選んだだけでしょ、と理性が囁(ささや)いても無視。三十三年前のデビュー時から取材を重ねるたび、その人となりにも強く惹かれるようになっていただけに、篠田節子流の茶目っ気で名前を使ってくれた、と勝手に思っている。
殺されたのは二度だが、救われたことなら数知れない。この作品集も、まさに心のレスキュー本と言える。「田舎のポルシェ」「ボルボ」「ロケバスアリア」、三編のロードノベルを堪能し、切なさと清々しさが入り交じったような余韻に浸っているうちに、こんな言葉がポロッと口から漏れた――うん、そうだね、愚痴はこぼしても腐らず恨まず人と比べず、今日を楽しんで生きていけたらいいよね。よぉし、私もっ。
二〇二一年の春、本書の単行本を書店で見かけた時は、正直なところ、あまり食指が動かなかった。タイトルの素っ気なさもあるが、何より中編集だったからだ。
篠田節子の長編小説の凄さなら、十分過ぎるほど知っている。コロナ禍が始まる二十五年も前に、未知の感染症によるパンデミックを描いた『夏の災厄』。金で買われるように日本の豪農に嫁いだネパール人女性と、彼女を虐(しいた)げ、のちに翻弄されていく夫を通して日本社会の諸問題を突きつけてくる『ゴサインタン――神の座』。超管理社会となった二〇七五年の東京を舞台に、とてつもない武器で国家と闘う一家に笑わされ、涙した『斎藤家の核弾頭』。圧倒的な音楽の才能と脳の障害を併せ持つ少女が悲劇を引き起こす『ハルモニア』。日本のマザー・テレサと呼ばれた女性の死から人間の多面性に迫る『鏡の背面』……。一九九〇年にデビューして以来、政治、経済、科学、社会、音楽、家族、恋愛と多種多彩な題材を織り込み、ジャンルを自在に横断しながら年に一、二冊のペースで刊行される長編に、幾度となく衝撃を受け、頭も心も揺さぶられてきた。
篠田節子の短編の凄みも、よく知っている。大震災が起きた東京から地方へと飢えた避難民が押し寄せていく「幻の穀物危機」。母親に虐待され、登校拒否の子供たちが暮らす農場にあずけられた少年が、食用の豚だけと心通わせ、誰からも与えてもらえなかった温もりを手にする「青らむ空のうつろのなかに」。高齢化と政治家の無策からアジアの最貧国となり、化学物質や放射能に汚染された近未来の日本を静謐(せいひつ)なタッチで描く「静かな黄昏の国」。幸せそうな女友達への嫉妬から主人公が心を病んでいく「天窓のある家」……。六百ページを超える大作にすることも可能なアイディアや材料を惜しげもなく投入しては凝縮し、余分なものを削ぎ落として生み出される色とりどりの短編は、味わい深く、時を経ても古びない。二〇〇二年に書かれた「静かな黄昏の国」など、東日本大震災と原発事故を体験した私たちに更なるリアリティで迫り、背筋を凍らせる。
中編が長編や短編に劣ると思っているわけではない。単に、好みの問題。早く寝なきゃ明日がつらいと思いながらページをめくり続けてしまう極上の長編ならではの背徳的快楽や、わずか数十ページで世界や人間の本質を浮き彫りにするキレのいい短編の衝撃を味わいたいのである。そんなわけで、今回はパスしようと思いつつ、でも、ちょっとだけ、と表題作「田舎のポルシェ」の立ち読みを始めたのだが、三ページ足らずでグッと心をつかまれ、レジへと向かうことになった。
まず設定が面白い。台風接近中だというのに、灯りも人気(ひとけ)も絶えた未明、岐阜市内の駐車場で女がひとり、迎えのハイエースを待っている。市の資料館で働く増島翠(ますじまみどり)。そこに現れたのは、なぜか古びた軽トラックで、全身紫のツナギ&喉元から金鎖&丸刈りの強面な大男が降りてくる。翠の同僚の知り合いで、東京・八王子にある翠の実家から百五十キロの米を運んでくる仕事を日当三万円で請け負った瀬沼剛(せぬまたけし)。かくして初対面の男女が、ポルシェ911と同じリアエンジンリアドライブの“田舎のポルシェ”を駆って、往復千キロに及ぶ旅に出る。
翠はなぜ故郷を捨て、縁もゆかりもない地方都市でひとり暮らしを続けているのか。台風が迫る中、大量の米を引き取らなければならなくなったのか。酒屋の跡継ぎだった瀬沼は、なぜ便利屋で日銭を稼ぎ、ハイエースでなく軽トラでやって来たのか。共に三十代半ばながら共通項がまるでないふたりの会話が軽妙につづられ、それぞれの事情が顕(あら)わになっていく。同時に、令和の今も日本人を縛っている旧弊な価値観、衰退する一方の農業や地方の現状が浮き彫りにされていく。
一九九七年に直木賞を受賞した『女たちのジハード』で篠田は、男性優位社会の中で踏みつけにされても躓(つまず)いてもへこたれず、人生を切り開こうとする康子やみどりら五人の奮闘を生き生きと描き、多くの女性読者を勇気づけた。あれから四半世紀以上経つが、我が国の男女平等度ランキングは一四六カ国中一二五位(世界経済フォーラム二〇二三年版「ジェンダーギャップ・レポート」)。『女たちのジハード』の主人公の一人と同じ読みの名を持つ「田舎のポルシェ」の翠も、政府が喧伝する“女性活躍社会”の薄っぺらさを日々痛感させられている。
日本の国力が衰え、未来に希望を持ちづらくなった令和を生きる翠は、昭和から平成にかけて社会に出たみどりたちのように躊躇せず新たな世界になど飛び立てない。しかし、自分が今いる環境の中で、愚痴をこぼしたり滅入ったりはするけれど、人生をあきらめず、投げ出しもしない。偏見や因習に抗(あらが)い、時に受け流しながらまっとうに働き、平凡だがかけがえのない日々を重ねていく。その姿は、どんなサクセスストーリーよりも現代の読者を力づけるだろう。
二作目の「ボルボ」は、還暦を過ぎた男二人の物語。大企業を退職した伊能(いのう)が、長年乗り続けてきたボルボを廃車にする前に思い出の地を巡ろうと、知り合って一年半の斎藤(さいとう)を誘い、東京から北海道へ。斎藤は、勤めていた印刷会社が定年間際に倒産し、今やバリキャリの美熟女妻に養われる立場。ロングドライブの間に、教養も妻への理解もある穏やかな紳士に見えた斎藤の仮面が、どんどん剥がれ落ちていく。情けなさ過ぎて同情してしまうほどだが、やがて思いもかけぬ展開が訪れる。ほろ苦くも痛快なラストに、身の回りにいるトホホなオヤジたちの内なるパワーを、そして自分自身を信じたくなった。
三作の中で最もわかりやすい形で胸を揺さぶってくるのは、最後に収められた「ロケバスアリア」だろう。夫を看取ったあと介護の仕事を始め、古希を迎えた春江(はるえ)がコロナ禍を逆手に取り、一世一代の夢を叶えようとする。
緊急事態宣言であらゆるイベントが中止になった二〇二〇年。憧れのオペラ歌手も立った浜松の音楽ホールが無観客を条件に一般開放され、三時間二十万円で借りられると知った春江は、即座に予約。勤務するデイサービスセンターが自主休業に入った翌日、孫の運転するロケバスで東京を発つ。『トスカ』第二幕のアリアを歌うために……。人生の荒波に揉まれることで磨かれてきた春江の明るさと靱(つよ)さは、彼女と触れ合う人々の心を覆っていた暗雲に風穴を開ける。新型コロナのパンデミック以降、誰もが少なからず抱えている鬱屈にも効果がありそうだ。
収録作品は、新型コロナウイルス感染症がニュースになる少し前に書き始められ、二〇二〇年から二一年にかけて「オール讀物」に掲載されたという。パンデミックの渦中にトラブル続出のロードノベルを紡いでいたわけだ。さらに、その遥か前から著者が次々に押し寄せる困難と格闘していたことを、『介護のうしろから「がん」が来た!』というエッセイ集の文庫版あとがきで知った。
二十八年ほど前に、実母が認知症を発症。徹底した取材や調査に裏打ちされた、あの多彩で骨太な作品の大半は、徐々に症状が進む母を実家に通って介護しながら生み出したものなのだ。二〇一七年、母親が施設に入り余裕ができたのも束(つか)の間(ま)、今度は自身に乳がんが見つかる。術後は順調だが、「ボルボ」を書き上げた数カ月後、絞扼性(こうやくせい)イレウスにより捻(ねじ)れた腸の一部が壊死(えし)し、死にかけたという。驚嘆すると同時に納得もあった。だからこそ、この中編集は軽やかでいて奥深く、押しつけがましさ皆無なのに、読んでいるといつの間にか鼓舞されてしまうのだろう。
「ロケバスアリア」の春江は、七十歳を過ぎても夢に向かいひた走る。そして、新たに押し寄せてきた大波を前に思う。
〈運命を嘆いてなどいられない。神仏を恨んだところで何になるだろう。
今日を楽しみ、歌い、食べて、飲んで、働き、人生を愛する。命の尽きるその日まで〉
ヒロインの言葉に、作家・篠田節子の覚悟が重なって見えた。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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