天下人・豊臣秀吉――だが、その出自には大きな謎が残されている。史料を読み解くと、秀吉には「父親が二人いた」可能性が浮かび上がるのだ。なぜ日本史上屈指の英雄でありながら、父の正体は定まらないのか? 歴史学者の磯田道史氏の新刊『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

豊臣秀吉の父親は「誰」なのか? ©getty

◆◆◆

父親は誰か?

 二人の兄弟関係を考えるうえで、最も重要なのは彼らの親は誰か、という点です。特に父親のほうが謎が多いのです。

 秀吉、秀長とも、母親は同じでしょう。母は「仲」と呼ばれることもある、のちの大政所です。これに異論を唱える研究者はいません。

 問題は父親です。秀吉と秀長の父は同じなのか別なのか。

 秀吉、秀長ともに、同時代の史料からは父が誰であるかは確定できません。彼らの幼少期について書かれたものは、当然ですが、すべて秀吉が功成り名を遂げた後、まとめられたものです。

 そのなかで最もよく参照されるのは『太閤素生記』でしょう。これは江戸初期の寛永年間、すなわち十七世紀前半に、秀吉の生涯に関する聞き書きをまとめたものです。著者は徳川秀忠、家光に仕えた旗本の土屋知貞ですが、他史料にはない秀吉の前半生に関する詳しい記述があることで知られています。

 とはいえ、この書物が書かれたのは、秀吉の死から数十年もあとのことです。それにもかかわらず、この『太閤素生記』が重視されてきたのは、土屋知貞が話を聞いた情報源(ネタモト)が特別だからです。

『太閤素生記』がある程度信頼できる理由

 その一人は、知貞の父、土屋円都。土屋家はもともと甲斐武田家に仕えた一族(ちなみに円都の父昌遠は信玄に追放された武田信虎とともに甲斐(いまの山梨県)を離れ、京都まで行動をともにしています)でしたが、円都は幼少期に失明し、縁を頼って井伊谷の菅沼氏に身を寄せます。そして駿河(いまの静岡県中部)で、今川氏の人質となっていた少年家康の側に仕えたのです。

 その後も円都は検校として、今川氏真や北条氏政に近侍します。『寛政重修諸家譜』によると、氏政は円都に辞世の歌を託していますから、近しく仕えていたことがうかがえます。円都は記憶力が非常に良かったようです。

 秀吉による小田原攻めの際、家康は井伊直政に命じて、円都を救出します。幼少期の縁もあったのでしょうが、私はそれよりも家康の情報に対する鋭いセンスを感じます。つまり、家康にとっては、今川家、北条家の権力者のそば近くに仕えて、膨大な情報を耳にし、記憶してきた円都はまさに一級の生き証人でした。

 この『太閤素生記』は説得力を持っています。なぜなら知貞の養母と祖母の二人がこれまた強力な証言者なのです。それもそのはず、彼の養母は、秀吉の出身地とされる尾張(いまの愛知県西部)の中中村の代官、稲熊助右衛門の娘でした。

 知貞によると、稲熊助右衛門は〈信長公の弓を預かる〉者であり、養母は〈秀吉前後の年〉、秀吉と同年代で、〈常に是を物語す〉と、秀吉たちの中村時代についていつも話していたそうです。

 さらに興味深いのが祖母キサで、彼女はなんと十六歳の秀吉に直接会っているのです。後に詳しく述べますが、秀吉が故郷の尾張を出て浜松にやってきた際の城主が、キサの父である飯尾豊前守でした。

秀吉の父親は…

 では、この『太閤素生記』は、肝心の秀吉、秀長の父親についてどのように記しているのでしょうか。冒頭の部分の現代語訳(磯田訳)を参照しながら紹介していきましょう。

〈尾州愛知郡の内に上中村中々村下中村と云在所あり 秀吉は中々村にて出生〉(*編集部註:かな、漢字などの表記は読みやすく改めました)

「尾張の愛知郡に、上中下の中村という地があり、秀吉は中中村に生まれた」

 ここで秀吉の出生地は尾張の中村だとされています。いまも名古屋市に中村区があり、名古屋駅もある中心地です。実は、この出生地をめぐっても議論があるのですが、それは後に述べるとしましょう。

 そして、父親です。

〈父は木下弥右衛門と云中々村の人 信長公の親父信秀(織田備後守)鉄炮足軽也 爰かしこにて働あり就夫手を負 五体不叶中々村へ引込百姓と成る 太閤と瑞龍院を子に持ち其後秀吉八歳の時父弥右衛門死去〉

「父は木下弥右衛門といい、中中村の人で、信長の父信秀に仕える鉄砲足軽だった。ここかしこで働きがあったが、ついに手を負傷し、体が不自由になって中中村に引っ込んで百姓になった。秀吉とその姉を子に持ち、秀吉が八歳の時亡くなった」

二人は異父兄弟

 ここまでの記述でも、いくつか気になるところがあります。

 まず秀吉の父が最初から木下姓を名乗っていたかどうか。当時の足軽は名字があったりなかったりします。また鉄砲足軽とありますが、いわゆる鉄砲伝来は秀吉誕生より後です。弥右衛門が仕えたのが織田信秀であったかも、疑問があります。当時の信秀の勢力が中村あたりまで強く及んでいたのかどうかです。

 こうした疑問点はありますが、この『太閤素生記』が秀吉の幼少期に関する貴重な証言であることは間違いありません。

 さて、ここで重要なのは、弥右衛門の子として、秀長が登場していないことです。ここが不思議なところで、秀吉と秀長が三、四歳違いであることはすでに確認しました。すると、弥右衛門が死んだときにはすでに秀長は生まれていたはずです。秀吉の母は夫をかえたか、男性をかえて、子を身ごもったのでしょうか。

『太閤素生記』はこう続きます。

〈秀吉母公も同国ゴキソ村と云所に生れて木下弥右衛門所へ嫁し秀吉と瑞龍院とを持木下弥右衛門死去之のち後家と成て二人の子をはぐくみ中々村に居る〉

「秀吉の母も尾張の御器所村に生まれて、木下弥右衛門のところへ嫁ぎ、秀吉と姉を生んだが、弥右衛門の死後は後家となって中中村で二人を育てた」

 ところが、近年、戦国史研究者を中心に、天文十二年八月二日没の「妙雲院殿栄本」という法名の人物がいて、秀吉・秀長ともこの人物の子であるとする説をとる方も多いのです。

『瑞龍寺差出』という史料がその根拠です。ただ、秀吉の母は、のちに秀吉の異父兄弟を産んだ産んでいないの隠し子騒動が記録されている人です。秀吉の父が長生きをしていたとしても、自動的に秀吉と秀長を同父兄弟とはいえない難しさがあります。

「二人目の父」の存在

『太閤素生記』では、ここで「二人目の父」が登場します。

〈信秀織田備後守家に竹阿弥と云同朋あり 中々村の生れの者なり 病気故中々村へ引込む所の者 是を幸に木下弥右衛門後家秀吉母の方へ入るる 其後男子一人女子一人秀吉と種替りの子を持つ 兄男子秀利(初名小竹、後羽柴美濃守、後大和大納言)〉

「信秀の家来に、竹阿弥という同朋衆がいた。中中村の生まれで、病気をして村に帰ったところ、秀吉の母と再婚し、男女二人の子をなした。その男子が羽柴秀利、幼名小竹、後の大和大納言である」

 というわけで、秀長は竹阿弥の子であり、秀吉の異父弟だと記されて通説とされてきたのです。

 

 しかし、異説もあるのですから、秀吉・秀長の父問題は簡単ではないとの理解でいて下さい。

「どうして指を切り落とさなかったのか」豊臣秀吉が抱えていた『豊臣兄弟』では描かれない「ハンデキャップ」の正体〉へ続く