家康はどうしたのか!
「徳川家康の生きざまとか、歴史のことを知りたいが、歴史の本は難しい。細部が多すぎて、分かりにくい。時代背景がわかるよう要点を書いてほしい」。妻がそう私に言いました。娘も「パパの本はちょっと難しい」と言いました。NHKの大河ドラマ『どうする家康』を観るのに、「ほんとうの家康はどうだったのか」を知りたいようでしたが、良い本がなさそうです。
学者の難しい歴史も大事です。ドラマや小説と違い、「史実」がそこにはあります。しかし、細部に入りすぎるのが困り物です。読者が「木を見て森を見ず」どころか、「枝葉だけ見せられ、木も見えない」話になりかねません。この反省に立って、私は、勇気をふるって、徳川家康の本を書くことにしました。歴史の細部、枝葉は大事ですし、面白いものです。なんとか、歴史の「枝葉」を生かしながら全体像の「山」をも見せる徳川家康の本ができないものだろうか、と考えました。
悩みながら書き上げたのが、本書です。とにかく、わかりやすくしました。歴史学者に「それをやれ」といっても無理ですが、要点だけを書きました。ここで「要点」としたのは、
──家康は、三河の弱小大名であったのに、なぜ・どうやって天下を手に入れ、しかも二百六十年も続く、政権を築けたのか?
──読者の参考になるように、家康のその「弱者の戦略」をみてもらう。
これだけです。家康の歴史の細部を学ぶ本ではなく、家康の後ろ姿から、今を生きる人々が何かを得られる本にしたい。そう思っています。今の世の中、善良な人々が誠実にがんばっても報われない仕組みもあります。職場でも世間でも、弱者としての生存戦略がなければ、ひどい目に遭わされかねません。
この本は、誠実に生きているみなさんの「パブリック・ヒストリー」としたいのです。パブリック・ヒストリーとは近年、学界でも重視されはじめた概念です。「生きるみんなのための歴史」とでもいいましょうか、専門家のものになりがちな歴史をひろく活かす営みです。家康の経験を「楽しい。面白い。知りたい」でも、いいのです。家康の妻子との家庭事情から「何か学べた気がする」。それでもいいのです。この本は、「家康でもってするパブリック・ヒストリー(みんなが生きるための歴史)」でありたいと思っています。ようは、人生の参考書としての徳川家康です。
そこで大切にしたい視点があります。専門家の難しい歴史書は「史実」の追求に血眼になります。それをあまりやりすぎると、読者が置いてけぼりになってしまいます。史実も大切ですが、史実には必ず「尾ひれ」がつきます。学者は必ず、その尾ひれを切り捨てるトリミングをしてしまいます。「素朴一次史料主義」というやつです。当時の一次史料だけを確かな史料とみなし、後世の史料や伝聞の記録を全部捨てます。見向きもしません。
しかし、それでは、かえって歴史の真には迫れないのです。というのも、歴史は伝えられるなかで尾ひれがつきますが、その尾ひれのつきかたにこそ、歴史時代の人々の心があらわれる面もあるからです。ですから、この本では、一次史料だけでなく、二次的な記録が伝えるものも、なるべく紹介します。ただ、後世の記録は史実として、そのまま信じるわけにはいきません。この本を読むにあたっては、語尾の「と伝えられています」、「という伝説があります」といった表現にご注意ください。それは史実なのか、伝聞・伝承の類か、それとも、史実ではない伝説にすぎないのかを、語尾の表現で示しています。
また、この本では随時、学術的に価値のある一般歴史書も紹介していきます。史実の細部を掘り下げたい読者は、そちらも参考にしてください。歴史学界でいう「先行研究」と「最新研究」というやつです。現在、学界では、家康のその史実について、どんな話がなされているかも、文中に示しておきます。
家康は弱小大名でした。弱かったので、戦場で負けて逃げることもしばしばで、最初の妻子は殺す羽目にもなりました。それでも、起きあがって、この国のてっぺんに座ったのです。「どうする家康」も面白いのですが、この本には「家康はどうしたのか」が書いてあります。読者のみなさんの人生は一度きりで大切なものです。信長や秀吉のような力強い他人に振り回されず、ぜひ自分の人生を自分のものにしてください。この本がその参考書のひとつになれば、幸いです。
磯田道史
「はじめに」より
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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