なぜ天下人なのに「父親」がわからないのか…史料に残る、豊臣秀吉「2人の父親」のナゾ〉から続く

 天下人・豊臣秀吉には、表舞台では語られない「ハンデキャップ」があった――。のちに家臣たちから陰口を叩かれた身体的特徴とはいったい? 歴史学者の磯田道史氏の新刊『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

豊臣秀吉が抱えていた「大きなハンデキャップ」とは? ©getty

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十六歳で実家を出た秀吉

 次に秀吉、秀長はどこで育ったのかを探ってみましょう。

 秀吉も幼時は尾張国中村で育ったと思われます。早くに父をなくした秀吉は、養父となった竹阿弥とは、うまくいかなかったようで、十六歳のときに長子ながら家を出ます。『太閤素生記』はこのあたりの事情を詳しく述べています。

〈太閤十六歳 天文二十年(辛亥)春 中々村を出られ 父死去の節 猿に永楽一貫遺物として置く此銭を少し分け持て清洲ゑ行 下々の木綿ぬのこをぬふ 大き成る針を調へ懐に入 先鳴海迄来て此針を与て食に代る 又針を以て草鞋に代る 如此針を路次の便となして遠州浜松へ来らる〉

「秀吉は十六歳の春、中中村を出た。父が死んだとき猿にと永楽銭一貫文を置いてあった。この銭を少し分けてもらって、清洲に行き、下々が木綿布子を縫う大きな針を調え、鳴海まで来てこの針を与えて食や草鞋にかえ、このように針を路用にして、浜松に来られた」

実家でも「猿」と呼ばれていた秀吉

 ここで秀吉が実家でも「猿」と呼ばれていたことがわかります。おそらく弥右衛門の遺した永楽銭一貫文、銭千枚です。これは当時としてはすごい額です。その全額ではなく、少し分けてもらって、家を出たのです。秀吉としては、本来ならこの一千枚もの永楽銭は全部息子である俺のものではないか、という思いはあったと思います。

 父弥右衛門の遺産を使うにも、後から入ってきた竹阿弥に分けてもらわないといけなかったと記されています。これは十代の秀吉にとっては大問題だったのではないでしょうか。また、フロイス『日本史』は「山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。」とあり、秀吉が薪も売る小商いをしていた少年であった事実はひろく世界に知られました。

 秀吉が村を出た理由のひとつとして、私は周囲からのいじめの問題もあった、と推測します。秀吉は右手の親指が一本多い、多指症でした。これは加賀前田家に伝わる『国祖遺言』と、宣教師フロイスが書いた有名な『日本史』という二系統の史料で確認できます。

 

 このうち『国祖遺言』は、前田家の国祖である利家の伝記です。子の前田利長も登場しますが、ある日、聚楽第で、蒲生氏郷、加藤清正、金森長近らと、「どうして秀吉ほどの人が指を切り落とさなかったのだろうか」などと屏風の陰で陰口を叩いているさまが記されています。

 彼らのように秀吉の世話になった大名たちの差別丸出しの態度には、古文書ながら、読むたびに腹が立ちます。天下人になっても揶揄の対象になっているくらいですから、子供のころ、父もいない秀吉が当時の村のなかでどんな無理解に囲まれたか、想像に難くありません。

ハンデキャップを背負った秀吉の人生

 秀吉の出発点はゼロどころではなく、戦国社会のハンディキャップを背負った人生からのスタートでした。映画やドラマなどでは、秀吉のハンディは、まず無視されますが、このことに触れないのはよくないと考えています。

 秀吉は困難から出発し、見事に人を惹きつけ、ついには天下をも手中に収めました。そこに秀吉の確固たる人物像があります。それに勇気づけられる方も少なくないのではないでしょうか。