〈「できなきゃだめだ」「病院に叩き込んでやるぞ」約30分続いた大声、姉はどんな気持ちだったのか…弟が“統合失調症の姉の記録”を初めて残した日〉から続く
医学部に通うほど優秀だった姉に、統合失調症の症状が現れて突然叫びだした。医師で研究者の両親は、そんな姉を「問題ない」と医療から遠ざけ、南京錠をかけて家に閉じ込めた――。
藤野知明監督による映画『どうすればよかったか?』は、20年にわたり自身の家族にカメラを向け続けた作品だ。2024年12月に公開されるとすぐに口コミで大きな話題を呼び、動員数は16万人を突破。ドキュメンタリー映画として異例のヒットを記録した。
ここでは、映画に入れるのを断念したショッキングな事実も含め、藤野監督自身が率直に綴った著書『どうすればよかったか?』より一部を抜粋。
やっとの思いで姉を入院させ、症状が改善され始めてから6年後、姉が56歳のときに肺がんが見つかった。翌年には父が脳梗塞になり、左半身の麻痺が残る。同時に2人の介護生活を送ることを余儀なくされた監督が経験した姉との別れ、葬儀で父が述べた言葉について綴った部分を紹介する。(全4回の3回目/続きを読む)
◆◆◆
父と姉の介護生活
そのうちに父が突然立ち上がれなくなり、歩けなくなりました。病院をまわって調べると、前立腺がんが進行していることがわかりました。移動は杖から車椅子になり、トイレまで自分で行けていたのが、がんの進行とともにそれも無理になってきました。
トイレの代わりに蓄尿バックに排尿するのですが、尿の量、どれだけ水分摂取しているか、血尿ではないかどうかを調べるのは私や姉がやっていました。姉も具合がよい方ではなかったけれど、父の世話は積極的にしていました。
私はとにかく後悔したくなかったので、できる限りのことをしようと思いました。自分の仕事として行っていた撮影もこの時は休止しました。
この時の我が家は父と姉の2人に4つの病気が存在していて、通う病院もそれぞれで違っていました。父のケアマネージャーさんから、姉にも介護保険が適用されると教えられて、介護で受けられるサービスは最大限利用しました。
父の介護を手伝ってくれていた姉でしたが、室内でよく転ぶようになってしまいました。転ぶだけならまだしも、起き上がれなくなってきた。朝起きると廊下で倒れていることも増えてきたので、1階の床にマットを敷いて足が触れるとブザー音が鳴るセンサーも設えました。でも、そのブザーが多い時で日に30回くらい鳴るようになってきた。寝ていても頻繁に鳴るブザーの音で起こされ、眠りが浅くなってしまいました。
介護を受けながらも、父の頭はしっかりしていました。父はテレビで見たというマインドフルネスや呼吸法を姉に教えていました。
この頃私は、「お姉ちゃんは家にいるのが好きだから、病院ではなく家で看取る方がいいのかな」と漠然と考えていました。けれど姉は状態が徐々に悪くなって食事をとるのも難しくなり、入院せざるを得なくなったんです。
姉の主治医からは「心停止した場合、どうしますか」と聞かれました。大抵の人は「そのままに」と答えるようですが、姉は、
「心臓が停まったらまた動かしてください」
と答えていました。
傍らでそれを聞いていた私は、「停まる理由があって停まるのだから、蘇生処置をしてもまた停止してしまうんじゃないか?」と思っていましたが、それが姉の考え方なんだと受け止めることにしました。
同時に、姉の死を恐れる気持ちがずっと変わらないことを改めて感じたんです。誰でも死は怖いものでしょうが、姉ほど死を恐れる人はいませんでした。姉は100歳以上の長寿の方の写真や言葉を家に貼っていました。できれば永久に生きていたいのでしょうが、最低でも100歳までは生きるつもりでいたんです。
とにかく「1日でも長く生きたい」というのが姉の意思だったので、標準治療の範囲内でできる治療はすべてやりました。
ビートルズを聴きながら
姉がこの時入院していた病院からは、治療ができなくなった時に身体拘束はしないという説明を受けていました。しかし書類にサインするように求められ、よく確認したら、「身体拘束する」という内容が書いてあった。口頭での説明と書類の説明が相反していたんです。
長く通った病院でしたが、虚偽の説明を受け、信頼関係がなくなってしまった。ここに姉をこれ以上いさせるべきではないと思いました。そこで、別の病院へ介護タクシーを呼んで移ることになりました。
父と姉が会ったのは、その転院前後の時が最後でした。父はその時も、呼吸法について姉に教えていました。映画の中で姉がケーキを食べているシーンがありますが、それが父と姉が一緒にいる最後の場面になりました。姉は放射線治療のせいで髪が少し抜けていました。食べ物はもうほとんど受け付けなくなっていました。
転院後の病院では、積極的な延命治療のために全身管だらけにされてしまわないように、点滴で栄養を送るくらいの処置にしてもらいました。当時はもうコロナ禍で、なかなか面会はできない状況でした。でも、姉が好きなケーキを持って毎日病院に通い、看護師さんから姉の状態を聞いていました。この時、少しでも姉が移動可能な状態になれば家で看取る準備をしていました。
病院に個室を用意してもらい、久しぶりに顔を合わせた姉に「家に帰りたいですか」と聞くと、姉は「帰りたい」と返事をしました。
姉は様々な宗教に興味を持っていましたが、結局のところ何か特定の宗教を信じているようには見えませんでした。この状態で自分が姉に何かできることがあるかなと考えた時に、「意識がなくなっても耳は聞こえていることがある」と看護師さんから聞いたことを思い出しました。そこで一旦家に帰ってICレコーダーにビートルズのベストアルバムをダウンロードし、翌日病室に持っていって、苦しそうに寝ている姉に聴かせました。
姉は中学生くらいから、ビートルズのLPをたくさん集めていました。曲をかけながら歌っている姉の姿が記憶に残っていました。英語の歌詞の意味は理解できなかったけれど、幼かった私も姉にくっついて一緒に聴いていました。だから、姉との思い出の音楽でもある、ビートルズを最後にかけることにしました。
病院から「今日は病院に泊まって下さい」と言われ、私は姉のベッドの横の椅子で夜を明かしました。
翌日の早朝、姉は息を引き取りました。
これでもう姉にできることは何もなくなってしまいました。肺がんが見つかった時から後悔しないようできることは最大限してきたつもりでいました。しかし後悔の気持ちは少しずつ湧いてきました。
姉には大きな可能性がありました。大好きだった天文学でも絵画でも能力を生かせた場はあったと思います。
入院までかかった25年という歳月は、あまりに長すぎました。
姉の葬儀で
病院から父に電話をかけ、姉が亡くなったことを伝えると父は「そうかい」と答えました。葬儀の手配など、やらなければならないことが迫っていたのであまり長く話はできず、短い電話の中で父の様子をうかがうことはできませんでした。
朝7時頃に帰宅すると父は起きていました。姉が亡くなるまでのことを聞いてきたので伝えると、父はじっと聞いていました。
葬儀屋さんとの事前打ち合わせで、お棺に少しだけ物を入れられると聞き、父から論文を探してほしいと頼まれました。両親と姉の名前が入ったものです。私はやめた方がいいと思いましたが、父の希望通りの小冊子をどうにか見つけました。葬儀には親戚が数名と私の知人が数名参列してくれました。
父は弔辞で「私の研究を手伝ってくれた親孝行な娘だった。ある意味で娘の一生は充実していたといえるのではないか」と語りました。父はきっとそう思いたかったのでしょう。
そして姉が統合失調症を発症していたことを一切言いませんでした。私は、父が姉の死の直後から統合失調症を発症していた事実をなかったことに書き換えていることに強い違和感を覚えました。
通夜には親戚も来ていたので撮影するつもりはありませんでしたが、我慢できず、携帯で父の弔辞の様子を途中から撮影しました。父は同じ話を3回して弔辞を終えました。
その流れで、お棺を閉める時も携帯で撮影することにしました。まず姉の周りに花が敷きつめられ、私が父に姉の名前が入った2つの論文を渡すと、父は論文を姉の顔のすぐ下あたりに置きました。
親戚の一人が「これで勉強ができるね」と言ったので、私は「(勉強を)したければね」と反応しました。すると別の親戚が私の意図に気づいたようで「もう勉強は嫌だって言ってるかも」と継ぎました。それでも父は論文を指さし「これで始まって、これで終わったんです」と続けると、親戚たちは「あぁ、そうなんですね」と相槌を打ちました。父の態度は、自分の願望を姉に押し付けているように見えました。
葬儀屋さんは姉のためにショートケーキを用意してくれていました。私は姉が愛用していたタロットカードと未使用のスクラッチくじを数枚入れました。
父は最後に姉の鼻をちょんと触りました。そしてお棺は閉じられました。
〈「なぜ病院に行かせなかったの?」姉が統合失調症になってから40年…『どうすればよかったか?』監督が最後に父に聞きたかったことと“父の答え”〉へ続く









