〈「私は羆に用心するから、遭遇することは滅多にない」それでもうっかり近づきすぎて見た羆の姿は…〉から続く
昨年の「今年の漢字」にもなった「熊」について、近くから、遠くから、考える。「文學界」2026年2月号の特集「熊を考える」より、作家・木村紅美さんのエッセイ「熊は家のまえに来た」を特別に公開します。
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九月二十五日、盛岡の中心街にあるライヴハウスでGEZANを見た。帰りは遅くなるからタクシーを使う、いちおう熊も心配だしね、と家族には話していた。
ライヴが終わったのは二十一時半頃で、家の方面まで向うバスの最終が残っていた。交通費、というものにかんして至極ケチな私は、バスに乗ることにした。来年三月にあるこのロックバンドの武道館ライヴも俄然行きたくなったし、熊への警戒心より節約したい欲が勝った。会場から本町通りにあるバス停まで、灯りが減り暗くなってゆく道をひとりで七、八分歩いた。バスが来るのもひとりでしばらく待った。
翌月、本町通りには熊が出た。小学校へ侵入したようすは全国ニュースになった。
十月二十一日におこなわれる谷崎潤一郎賞の贈賞式に出るために、二十日に上京した。荷造りをしていた前夜、ふとインスタグラムを見ると、私の家からぎょっとするほど近い区域に熊が出てパトカーが廻っていると友人が投稿していた。贈賞式でのスピーチは、月の輪熊の棲息する岩手県からやって来ました、という挨拶で始めようとは、受賞の連絡のあった数日後から考えていた。会場である東京會舘の控室へ案内される頃には、不謹慎かもしれないという不安が生まれていた。もう別の挨拶を考えなおす余裕はなかった。
「ついには、毎日の散歩コースにも出没するようになりました。ほんとうは、河川敷を歩いて、木の沢山生えている場所や、藪のあるところ、うす暗い廃屋の庭へ入り込むのが好きなのですが、さすがに、足を踏み入れなくなりました。もしも、いま、私が熊に襲われて亡くなりでもしたら、遺作は『熊はどこにいるの』になります」
予想を超える笑いが起き、私は金屏風を背に内心蒼ざめた。じっさいに亡くなられた方たちにたいして申し訳なさが湧いた。
「笑いごとではありません」
とつけ加えたら、また笑いが起きた。熊の話は、ここで終わりにした。
そのあと、ニュースをチェックするたび、熊は盛岡の中心街にも家方面にもばんばん出るようになっていった。高円寺の喫茶店でも東北の熊の話をしている人がいた。
私の小説が熊を下界に呼び寄せているのでは、と言う友人がいた。なんて不吉な、と笑い飛ばした。二十五日、新幹線で盛岡へ帰った。駅に着いたのは夜で、私のケチぶりをよく知る親には、ぜったいにタクシーを使うように言われていた。キャリーバッグを引いてリュックサックを背負い、肩からは谷崎賞の副賞であるミキモトの真珠の指輪に頂き物のお菓子や紅茶の詰まった紙袋を提げた私は、どうしてもケチから抜けられない。雨のなかを、いったん、バス乗り場まで歩いた。
「家のまえを、熊が走っていきましたよ」
家方面へのバスは十五分後に来ることになっていた。いつもの自分なら待つのに決まっていた。停留所から家までの道にも熊が出たことを考え、真珠を持っていることだしタクシーに乗った。熊に負けた、と思いながら。翌日の朝七時、家のブザーが鳴り、早起きの親が応じた。
「さっき、木村さんの家のまえを、熊が走っていきましたよ」
近所の子どもたちが窓越しに目撃し、教えにきてくれたのだった。私は寝ぼけながら、お祝いをしにあらわれたのだろうか、と考えた。東京から帰るのを察して会いに来られたようでもあり、自分で書いた小説のなかの、リツ、という女になった気分もした。
十月十七日、岩手県の北上市の温泉旅館で、露天風呂を掃除していた従業員の男性が熊に襲われ亡くなった。笹崎勝巳さん。プロレスのレフェリーを長く務めていた方で、プロレスに無知な私でも名前を知っている有名レスラーたちがネット上に追悼文を書きこんでいた。いずれも信頼関係の厚さと慟哭の伝わる内容だった。いくら熊のニュースを見ても遠い出来事のように思っていたのに、笹崎さんがこんな亡くなりかたをするなんて、一気に身近になった、というふうなことを書いている方がいた。訃報を知り、どれほど強いショックを受けたことだろう。
盛岡に暮らし、連日、馴染みのある場所に熊の出るニュースを眼にはしていても、いま、この原稿を書いている時点で街にいる熊を目撃していない自分は、逆の感覚をおぼえている。散歩へ出ようとしたら家のまえにパトカーが来て「付近で、熊、二頭、出没したとの情報がありました」と告げて去ってゆき、散歩を止めたことはある。でも見てはいない。知りあいで体を傷つけられる被害に遭った人も、いまのところいない。
確実に近くにいるのに、なんだか遠い。
熊は、人を襲うときはまず眼を潰しにかかる。襲われた人はみんな顔の皮が剥がれる、という話は『熊はどこにいるの』に書いた。間近で出くわしたくはないけれど、川を泳ぐ熊(中津川沿いの定食屋のおかみさんは、見た、と言っていた)や、だれかの畑のものではない柿や栗の木に登って夢中で実をむさぼる熊(岩泉町の柿の木に通って鈴なりになっていたのを見事に食べ尽くした親子は、全国ニュースにもなった)などは、害の及ばない距離で眺めてみたい気がする。
駆除、という表現は熊をばい菌扱いしているようで好きではない。岩手県の作家といえば宮沢賢治(一八九六―一九三三)。賢治の熊もの、といえば「なめとこ山の熊」だ。子どもの頃以来で再読すると、二〇二五年秋の現状に向って痛烈に訴えかけてくる。
「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なぞしるんだ」
撃ち殺した熊に向ってこんなふうにぼやく猟師の小十郎は、熊に敬意を払っていて、狩られる側の熊たちも小十郎に一目置いている。山では堂々とふるまう小十郎だが、町の荒物屋に熊の皮を売りに行くときは、情けない態度になる。旦那にさんざん侮辱されたうえで、買い叩かれる。
「ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない」と書かれるのに反し、いまや、大きな荒物屋(盛岡の中心街には一八一六年創業の「茣蓙九」という店が健在)のある町なかに、平気で熊は出る。いま、熊撃ちを侮辱したら、いざというとき、出動してもらえなくて熊に食われるのは町の旦那のほうかもしれない。そこまでいかなくても、岩手旅行は熊を怖れてのキャンセルが相次ぎ、夜に出歩く人が減って繁華街は大打撃を受けている、とも聞く。人間としての誇りを踏みにじられるような安い値段でも毛皮を買ってもらえないと一家が餓死するほどに貧しかった小十郎が、じつは、山と人里の境目を守っていたことが、この一篇を読めばわかる。
身近な熊、といえば、私の愛用するキーホルダーは熊の牙で作られたものだ。猟師でアクセサリー作家の友人から購入した。外出時は持ち歩いて、家にいるときは仕事机に置き、お守りみたいでもある。
先日、早池峰山麓の民宿へ泊りにゆくと、夕飯に熊肉が出た。新潟県に暮らす息子さんが送ってくれた新潟の熊だ。薪ストーブに載せた鉄板で焼いたものを、どんどん、玄米ごはんのうえにのっけてくれて、じっくりと噛みしめ頂いた。牛に近い味で野生を感じる深みがありとても美味しかった。熊のあとは猪肉も焼き、鉄板にのこった脂で玄米を炒めたピラフも頂いて、これも絶品だった。おもわず、熊、もっと、食肉にすべきでは、と言ったけれど、解体が大変で流通はむずかしいらしい。
共棲する道を探りたい
盛岡市内の人気スパイス料理店では、夏頃に熊肉のカレーを出していた。あれはどんな味だったのだろう。食べ損ねたのが悔しい。なにせ、谷崎賞を受賞したのは熊のおかげでもあり、私はお腹に収めるいっぽうで、足を向けては寝られない、という感謝の念も抱いている。共棲する道を探りたい。早く冬眠してほしい熊に注意し、熊鈴を鳴らし散歩しながら、次にあそこが熊肉カレーを宣伝していたらかならず食べに行こうとも脳裏をよぎる日々を送っている。








