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吉村昭『羆嵐』のモデルとなった三毛別事件の真実を生々しく綴る大傑作ノンフィクション

吉村昭『羆嵐』のモデルとなった三毛別事件の真実を生々しく綴る大傑作ノンフィクション

文:増田 俊也 (作家)

『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)

 本書は北海道開拓時代に起きた三毛別ヒグマ事件――一頭の巨大ヒグマが一週間にわたって開拓部落を襲い、七人を食い殺して三人に重傷を負わせた凄惨な事件を、克明かつ詳細に綴った記録である。

 事件は、冬眠に失敗して餓えた凶暴なヒグマが、開拓部落の一軒の家を襲ったことから始まる。預かり子の幹雄は一撃で撲殺され、阿部マユが血まみれにされて熊に咥えられ山に連れ去られた(後に大半が食された無残な死体が土中から発見された)。

 この事件を受け、最終的に北海道警のほか、陸軍歩兵連隊、消防組、青年団など、官民合わせ延べ六百人、アイヌ犬十数頭、鉄砲六十丁もの大討伐隊がこのヒグマに挑んでいく。しかしヒグマは吹雪と暗闇にまぎれ執拗に開拓部落を襲撃し、一人、また一人と人間を食い殺す。万策尽きた人間たちは殺された仲間の遺体を囮にしてヒグマをおびき寄せるという最終手段に出たが、ヒグマはそれをあざ笑うかのように人間たちを翻弄していく。いったいどうしたらあの悪魔を倒せるのか――。この稀有なモチーフとリアルな描写で、本書は日本文学史に永劫語り継がれるであろう大傑作ノンフィクションとなっている。

 私自身、この事件をモデルにして書いた『シャトゥーン ヒグマの森』(宝島社)という小説で十年ほど前に作家デビューしている。新人賞受賞を目指す作品で、なぜこの事件をモチーフにしたのかというと、人間による過去のどんな殺人事件を調べても、この三毛別ヒグマ事件の前にかすんでしまったからだ。シリアルキラーによるどんな猟奇的な連続殺人事件も、このヒグマによる食害の凄惨さに比べたらかすんでしまったからだ。

 戦前の高専柔道の流れをくみ旧帝大の七校だけに伝わっている寝技中心の七帝柔道をやるために私が北海道大学へ入学したのは、一九八六年(昭和六十一年)、二十歳のときのことである。

 自伝的小説『七帝柔道記』(KADOKAWA)にかつて書いたように、きっかけは愛知県立旭丘高校時代に名古屋大学柔道部員に入部勧誘を受けたことだった。

 あれを読んだ方に「どうして名古屋大学ではなくて北海道大学を選んだんですか」とときどき聞かれるが、その理由こそ、北海道大学ヒグマ研究グループ(略称クマ研)の存在にあった。

 このクマ研は一九七〇年代、北海道大学の学生たちによって設立された任意団体だ。簡単にいってしまえばサークルのひとつなのだが、この団体が長い間かけて世界のクマ研究界に果たした功績は計り知れない。農学部、水産学部、理学部などのさまざまな学部を横断し、当時ほとんど知られていなかった野生ヒグマの生態をフィールド調査中心に行っていた日本唯一の団体だった。

 私が二年間の浪人生活の間に参考書より繰り返し読んでいたのが、井上靖が高専柔道にかけた青春を綴った自伝的小説『北の海』(新潮文庫)と、この北大ヒグマ研究グループの共著『エゾヒグマ~その生活をさぐる』(汐文社)である。

 執筆者一覧を見ると当時のクマ研のメンバーが十数人並んでいる。この名前を私は浪人時代に繰り返し見ては、いつかクマ研が二冊目の本を出すときにはここに自分の名前が記されるのだろうかと胸を高鳴らせていた。当時の北大は入学時に理系文系など大まかな区分けで教養部に所属し、そこで一年半過ごしたあと希望の学部学科に進むシステムだった。しかしクマ研のメンバーのうちの少なからずがヒグマに没頭するあまり留年を繰り返して教養部に長期滞在していたのも、ヒグマの魅力を間接的に知る証となった。

 この本の執筆者一覧のうち何人かの名前と当時の所属をここにピックアップしてみよう。

・間野 勉(教養部)
・園山 慶(教養部)
・山中正実(水産学部発生学遺伝学教室)
・宇野裕之(農学部応用動物学教室)
・松浦真一(水産学部浮遊生物学教室)
・坪田敏男(獣医学部家畜臨床繁殖学教室)
・綿貫 豊(大学院農学研究科応用動物学教室)

 この人たちはいま何をしているのか。

 私のなかで浪人時代の青春の記憶と現在が繋がったのはつい数年前のことだ。別件で知床半島のことを調べていて、たまたま山中正実さんが知床財団統括研究員としていまもヒグマの研究をしていることを知り、会ったこともないのにメールで「僕は山中さんたち当時のクマ研に憧れて北大に入りました」と送ったら返信が返ってきたのだ。三十年近く前に書籍で憧れた人が、現実にいて、現在もヒグマ研究に関わっているということに感動した。

 そして実はヒグマに近い職業に就いているのはこの山中正実さん(現在は斜里町立知床博物館館長)だけではなかった。ためしにネットで検索してみると、間野勉さんは北海道環境科学研究センター主任研究員兼野生動物科長、園山慶さんは北海道大学大学院農学研究院准教授、宇野裕之さんは北海道環境科学研究センター道東地区野生生物室長、松浦真一さんは北海道新聞社編集委員、綿貫豊さんは北海道大学大学院水産科学研究院教授、坪田敏男さんは北海道大学大学院獣医学研究科教授、全員がヒグマの研究や保護、その生態の啓蒙などに携わることができるポジションにいる。

【次ページ】

文春文庫
慟哭の谷
北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件
木村盛武

定価:737円(税込)発売日:2015年04月10日

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