- 2015.04.15
- インタビュー・対談
元林務官が執念の取材で追究した、ヒグマによる史上最悪の惨殺事件の真実
「本の話」編集部
『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)
ジャンル :
#ノンフィクション
本書『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』は、大正4年(1915)の暮れ、北海道苫前村三毛別(さんけべつ)の開拓地に突如現れ、8名もの人を食い殺した三毛別羆(ひぐま)事件の真相を初めて明らかにした傑作ノンフィクションとして関係者の間では、非常に高い評価を受けてきた。著者の木村盛武氏は林務官という仕事の傍ら、ときに怒鳴られ、門前払いを食らいながらも、事件の生存者からの聞き取りを続け、執念で事実を掘り当てた。奇しくも事件から100年を迎える今年、特別編集版として文春文庫のラインアップに新たに加わる事を受けて、改めて木村氏にお話をうかがった。
――三毛別羆事件は、日本のみならず世界史的にみても類を見ない、まさに史上最悪の熊による食害事件として異彩を放っていますが、木村さんがこの事件に興味をもたれたきっかけは、どういうものだったのでしょうか?
初めてこの事件のことを林務官だった父から聞かされたのは、まだ4、5歳のころだったと思います。余りの恐怖にその夜は小用に立てなかったほどです。その後もやはり林務官だった母方の伯父からも、この事件におけるヒグマの異様なまでの獰猛さを聞かされていました。さらに決定的だったのは、私自身が、水産学校の学生時代、昭和13年の8月に北千島で人食いヒグマに接近遭遇した経験でした。今回の文庫版にも詳しく収録しましたが、私たちよりわずか20分ほど前に出た人が、ヒグマに惨殺された現場を目撃したのみならず、すぐそばにそのヒグマがいる気配を感じて、全身が総毛立つ恐怖を味わいました。これが私にとっては、ひとつの原点だったかもしれません。
それから、私も林務官となって、昭和36年ごろ、まさに三毛別事件の現場を管轄にもつ古丹別営林署に勤務することとなり、さらに事件の生存者がまだご存命だということも知り、いよいよ、この事件の真相を突き止めようと考えました。
――職業柄、林務官というのは、熊の棲息地域で活動する機会が多いわけですが、林務官に対して、ヒグマ対策のような教育は行われているのですか?
それが私も驚いたことに、少なくとも当時はほとんどなかったんです。「ヒグマに出くわすと危ないから気をつけろ」ぐらいは言われますが、どう気をつければいいのか、までは教えてくれなかった。実際に、私は林務官として、何度かヒグマに遭遇して、肝の冷える思いをしました。ですから本書を書くにあたっては、林務官はもちろんですが、この事件の真実を追究して、ヒグマというものの習性を明らかにして、二度とこのような悲惨な事件が起こらないように、多くの人に知ってほしいという思いでした。
――三毛別羆事件は、あれだけの死者を出した事件でありながら、木村さんが取材されるまでは正確な被害者数さえわからなかったそうですね。
そうですね。例えば、事件の起きた日時や場所、被害者の人数、年齢性別、現場の状況など、基本的な事実さえ、私が父や伯父から聞いた話、当時の新聞報道、あるいは事件について触れた刊行物は、それぞれ食い違っていました。単なる伝聞情報だけで書かれたものや、過剰な脚色が入ったものもあり、客観的な事実が掴めなかったんです。そういうこともあって、だったら自分が真実を追究しようと考えた次第です。
事件の生存者に斉藤ハマさんという方がおられて、この方はお母さんと、お腹の中にいた子どもを含めた3人の兄弟をヒグマに殺されていました。当然、事件のことなど思い出したくもないことは想像できましたし、これまで取材にも応じて来られなかったことは知っていましたが、この方に話を聞かないと、この本は書けないとも思っていました。
いざハマさんの家を訪ねてみると、「人の気持ちになってみれ!」と怒鳴らんばかりに追い払われました。当然といえば当然の反応で、二回目に訪れたときも、ぴしゃりと戸を閉められてしまいました。どうしたものか、と思っていたところ、ある日、列車で乗り合わせた方が、たまたまハマさんのお知り合いで、「ハマさんなら普段はよく畑にいるから、そこを訪ねてみたら」とアドバイスをもらったんです。そこで次の休みの日に、また訪ねて行って、畑にいたハマさんに会うことができたんです。家の中と違って、外ですから、門前払いにはならないこともあって、今度はこちらの趣旨、つまり「二度とこういう悲惨な事件を起こさないために、何があったのかを正確に記録しておきたい」ということをちゃんと聞いてもらえました。黙って聞いていたハマさんが、クワをおいたとき、私の真意を汲んでくれたことがはっきりわかりました。ハマさんは「そういうことでしたら、知っていることはお話しします」と仰ってくださいました。「ただ、写真だけは勘弁してください」とも仰って、事件の残した傷跡の深さに改めて立ち尽くす思いでした。
いずれにしろ、ハマさんの証言がなければ、『慟哭の谷』という作品が陽の目を見なかったであろうことは間違いありません。
また、蓮見チセさんという方は、わが子を預けていた先でヒグマに襲われ、殺されてしまったのですが、その息子の通夜に夫と参列したときのことを語ってくれました。息子が殺された家で通夜を営んでいると、なんと遺体を取り返しにヒグマが乱入してきたんです。一同はパニック状態になり、チセさんの夫はチセさんを踏み台にして自分だけ、天井の梁に駈け上ってしまったそうです。結局チセさんは、他の人に助けられて梁に上り、一命をとりとめましたが、「人間なんてひどいもんだ」と嘆息されていたのが印象的でした。
取材を重ねていると、改めて人間の実相というものが浮き彫りになってくるような気がしました。
結局、約30名もの事件の生存者や関係者から話を聞くことができたのですが、興味深かったのは、肝心の熊の大きさや色でさえ、十人十色で、「赤かった」という人もいれば「真っ黒だった」という人もいるという具合で、それだけ異常な状況だったことをまざまざと知らされると同時に、正確な事実を確定させるのには、慎重を要しました。いずれにしろ、そうした多くの方の協力があって、本を完成させることができました。
――その取材された成果を、事件発生50年後にあたる昭和40年、旭川営林局誌『寒帯林』において「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表されました。これが『慟哭の谷』の原型であり、作家の吉村昭さんがこの事件を題材にした名作『羆嵐』を書かれるきっかけとなったそうですね。
昭和49年ごろ、当時私は旭川営林局に勤めていたのですが、営林局に吉村昭先生から電話があって、「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を小説化したいので、直接お会いして了承を頂ければ、という内容でした。率直なところ、素人作家の自分が書いたものが、有名作家である吉村さんの目に止まったというのは、大変うれしかったです。なんでも、吉村先生が講演のため留萌を訪れた際、地元の記者に聞かされて、初めて苫前三毛別事件のことを知ったとのことでした。
それから吉村先生が編集者の方と旭川にお見えになって、私のもっていた資料やデータなどを示しながら、打ち合わせをしました。吉村先生は、熊に関する小説を当時既に九篇ほど発表されていましたが、「熊に関する実際のデータがなくて困っていた」とお話しになっておられて、特に数字やデータに興味を示されていましたね。
東京に戻られてからも、何かわからないことがあると、しょっちゅう電話がかかってきました。非常に熱心でしたね。ところがあるとき、電話で吉村先生が「申し訳ない」と謝られるんですね。何事かと思ったら、「1年で小説に仕上げる約束でしたが、まだ出来に納得いってないところがある。あと1年、猶予をいただけないでしょうか」と。こちらとしては、否も応もないのですが(笑)、いかにも吉村先生らしいお気遣いでした。
――三毛別事件が、数あるヒグマの食害事件のなかでも、とりわけ異彩を放っているのは、何と言っても、当該のヒグマの残忍性・執拗さが際立っているからだと思います。木村さんは本書のなかで「魔獣」という言葉で表現されていますが、この「魔獣」はなぜ生まれたのでしょうか。
事件の起きた時期は真冬で、本来であればヒグマは冬眠しているはずです。ですが、このヒグマの場合、どうやら苫前に現れる以前に、別の地域で猟師に追われ、冬眠に入る機を逸して、いわゆる「穴持たず」となってしまった。それで究極の空腹状態となり、旭川や天塩地域でも女性を襲ったとの証言がありました。事実、退治された後に解剖したところ、証言に一致する被害者の脚絆などが出てきました。手負い・穴持たず・空腹という要素が重なって、異常な執念と凶暴性を持つに至ったのではないか、と思います。
――本書の功績として、木村さんの調査で改めて明らかになったヒグマの習性もありますね。
例えば、一般に動物は火を怖がる、とされていますが、ヒグマの場合はその限りではありません。実際にこの事件では、明々とかがり火を焚いていたにも関わらず、ヒグマは何度となく集落を襲っています。それから、ヒグマにとって「獲物」は所有物ですから、遺留物があるうちは、そこから立ち去りません。この事件でも、「遺体」を自分の所有物とみなして、通夜の席にまで乱入しています。それから、通夜の席に乱入したことでも分かりますが、人間側の人数の多寡は関係ない、つまり10人いようと20人いようと襲うときは襲う、ということです。
――先程のお話にもありましたが、木村さんご自身も学生時代と林務官時代にヒグマと接近遭遇されています。ヒグマが近くにいるときというのは、どんな気配や匂いがするものなのでしょうか。
遭遇したケースによりまちまちなのですが、言葉では形容しがたい、一種異様な臭気がしたような記憶があります。気配については、ヒグマがいそうな場所では、やはりかなり緊張していますので、そのせいで過敏に気配を感じ取っていることもあると思います。何かの気配を感じても、実際には、ヒグマはいないということもある。
――今年で三毛別羆事件の発生から100年が経ちましたが、今年1月にも北海道標茶町で森林の伐採作業をしていた男性がヒグマの被害にあっています。今回の文庫化にあたり、『慟哭の谷』の内容に加えて、木村さんの別の著書『ヒグマそこが知りたい 理解と予防のための10章』から、ヒグマが人を襲ったケースを検証した二つの章を特別収録していますが、こうした悲劇を避けるためにどうすればいいのでしょうか。
まず、これは世間的に大きな誤解があるところなのですが、「ヒグマは冬は冬眠しているから警戒しなくてよい」というのは間違いです。むしろ、冬のほうが危険といえるかもしれません。ヒグマが冬眠する巣穴は、山奥ではなく、むしろ林道など人里に近いところに多い。しかも冬眠といっても、熟睡しているわけではなくて、言ってみれば半覚醒状態で、近くで大きな物音がすれば、当然起きますし、なかには、巣穴から半分身体を出して冬眠しているのもいます。最近では、スノーシューなどを使って、冬山を歩き回るレジャーもありますが、例えば木の下部に穴が開いているのを見かけたら、絶対近寄るべきではありません。
夏の場合であれば、熊鈴を持って歩くのは当然として、もうひとつお勧めしたいのは、蚊取り線香を腰から吊るすことです。ヒグマに限らず熊というのは、目はあまりよくなくて、耳と鼻で状況を確認します。けれど熊鈴だけですと、例えば渓流や滝など水音によってかき消されてしまうケースがある。そんなときでも、蚊取り線香の匂いがすれば、熊は人間の存在を察知して、避けてくれます。
人間の存在に気づけば、熊は自分から先に避けます。人間だと分かっていて、向かってくるのは、まずいません。
ということは、熊と人間の不幸な事故は、99%人間の側に責任があるといってもいいかもしれません。日本は国土の約70%が森林におおわれた森林国です。そうである以上、熊についてての正しい知識と対策を学ぶことは、非常に大事なことです。事件から100年という節目の年に文庫という形になった本書が、その一助となれば、著者としてこんなに嬉しいことはありません。そうなってこそ、不幸にも事件により亡くなられた方たちの魂も慰められるのだと思います。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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