長期戦となった三木城攻めとは対照的に、わずか1カ月余りで決着した備中高松城の「水攻め」。この電撃攻略を支えたのは、秀吉の戦術以上に、ある「莫大な財源」の存在だった。
信長から与えられた生野銀山という最強の財布を武器に、秀吉・秀長兄弟はいかにして土木工事の常識を覆したのか。歴史学者の磯田道史氏の新刊『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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生野銀山を手中に
天正五年十月、秀吉・秀長は但馬に攻め入ると、竹田城(いまの兵庫県朝来市)を落とし、秀長が城代となります。『信長公記』には、竹田城を落とした秀吉が「普請申しつけ」、大規模な城の工事を命じた、とありますから、現在、「天空の城」で知られ、多くの観光客を集めるあの美しい山城は、秀長が手掛けた可能性があります。
現存する竹田城は、天正十三(一五八五)年に赤松家が建てたとされていますが、発掘調査では、階段なども全面張りの石畳となっていたことが分かりました。石垣を積む技術は豊臣家の得意技です。
この竹田城を得たことが、秀吉・秀長にとって決定的に重要でした。それはこの城が近くにある生野銀山の警備の拠点だったからです。生野銀山を押さえることで、秀吉は天下を狙うことが可能になった、といっても過言ではありません。
これには、戦国大名の財政構造を踏まえておく必要があります。大名たちの経済基盤といえば、まずは領地です。そこから上納される年貢が財政を支え、そこに暮らす領民たちは労役を課したり、足軽として動員したりする人的資源でもあります。
しかし、たとえば毛利家百十万石といいますが、毛利家の当主が持っている領地自体はそんなに大きくはありません。家臣たちに分け与えなくてはならないからです。「毛利領」といっても中身は大半が家臣団に配分された土地なのです。これは兵力についてもいえます。戦国大名とは、家臣団の連合体です。家臣たちはそれぞれ兵を養い家臣団をもっており、それが集合して「武田軍」や「上杉軍」を形成しているのです。
戦国大名は自領の年貢だけでは戦争には勝てません。銭が要ります。ことに鉄砲が普及すると、鉄砲や弾薬などを買い付けなければなりません。秀吉が得意とした戦場での土木工事にも、「銭」が要ります。そうした軍費は、武将自身が身銭を切るほかありません。
その資金は、どこから調達するのか。ひとつは港のある商業都市を支配下に置くことです。信長が長篠の戦いでみせた鉄砲の大量使用は堺という大商工業地・国際交易港の鉄砲生産を押さえていたからこそ可能になりました。
そして、もうひとつが鉱山でした。たとえば毛利家の強さを支えていたのは、尼子氏との戦いに勝利して、永禄五(一五六二)年に手中に収めた石見銀山の銀にほかなりません。毛利元就はわざわざ遺言にも、石見銀山を死守し、軍資金とせよと書き残しています。
当時、生野銀山は石見と並ぶ、日本有数の銀山でした。秀吉・秀長が竹田城を落とし、生野銀山を押さえると、信長はこれを自分の直轄地にします。この時期、生野銀山関連の文書を見ると、秀吉は自ら信長への銀の上納を担当し、秀長は竹田城城代として、生野銀山に接近する敵を打ち払うガードマンの役割を担っていました。
三木城を落とした秀吉に、信長は二つのプレゼントを与えます。
ひとつは、茶会を開く権利でした。たかがお茶というなかれ、これは信長の「御茶湯御政道」と呼ばれる家臣統制政策でした。信長は功績をあげた家臣に茶道具を与え、さらに貢献を認めた者にだけ「御茶之湯」、すなわち茶会開催を許しました。
お茶は信長の信頼の証であり、家臣団のランキングを明示するものだったのです。事実、秀吉より先に茶会を許されたのは、嫡男である織田信忠、明智光秀などごく少数でした。
しかし、秀吉にとって茶より嬉しかったと思われるプレゼントが生野銀山です。信長は秀吉に生野銀山の上りを与えたようで、秀吉は莫大な独自財源を手にしたのです。
「二十カ月かかった三木城攻め」と「一カ月余りで終わった高松城攻め」の違い
生野銀山を手にしたのち、天正十年四月には、秀吉は難攻不落とされていた備中高松城を包囲し、有名な水攻めを行います。五月のはじめから堤防工事を行い、わずか二週間足らずのうちに完成させると、城内まで浸水した高松城は兵糧を絶たれ、六月四日に落城しました。このとき、秀吉は土嚢一俵に付き銭百文、米一升という超高額報酬で、人を集めたという言い伝えが後世にあるほどです。
二十カ月かかった三木城攻めと、一カ月余りで終わった高松城攻めで、何が違ったのか。その答えのひとつは、生野銀山です。
高松城の水攻めに要した膨大な戦費は、生野銀山からの収入によるものが大きかったに違いありません。お金がなくては天下は獲れません。秀吉が天下を獲れたのは、この生野銀山をおさえていたのも一因でしょう。
〈だから「豊臣兄弟」は貧しい百姓から天下人に出世した…数少ない文献からわかった秀吉&秀長の「類まれなるビジネスセンス」〉へ続く








