北朝鮮の金正恩総書記ファミリーに変化が起きている。北朝鮮の国営メディアは、西側メディアが「キム・ジュエ」と呼ぶ娘の露出を意識的に目立たせているが、逆に目立たなくなったものもいくつかある。権力体制に大きな影響を及ぼしかねない後継作業を慎重に進めた結果とみられる。
一つは、金正恩の妻である李雪主の存在だ。
朝鮮中央通信は26年1月1日、新年を祝う祝賀公演の様子を伝えた。金正恩と妻の李雪主、ジュエの3人が主賓席に座った。金正恩夫妻を両脇にし、ジュエを中心に座らせた配置にしたほか、正恩とジュエだけを捉えた写真も複数枚配信した。朝鮮中央テレビの映像でも、2人を中心にした構図が目立った。
また、朝鮮中央通信は1月2日、平壌の錦繍山太陽宮殿を金正恩夫妻とともに1日に訪れたジュエの写真を公開した。ジュエが同宮殿を訪れた写真を公開するのは今回が初めてとみられる。やはり、ジュエは正恩夫妻にはさまれ、中央の位置を占めた。
一方、李は25年公演には同席しなかった。同年6月の東部・元山葛麻海岸観光地区の竣工式では、テープカットをする正恩を横から見守ったが、ジュエよりは遠い位置に置かれた。25年12月20日に行われた北部・三池淵観光地区のホテル竣工式では、李は正恩とジュエに同行したが、式典の席には姿が見えなかった。朝鮮中央テレビの記録映像を見ると、金正恩の専用車に同乗していたのは、李ではなくジュエだった。
北朝鮮を逃れた複数の朝鮮労働党・政府の元幹部たちは、李の地味な扱いについて「(金日成国家主席の血筋である)白頭山血統ではないからだ」と指摘する。李は12年ごろまでに正恩と結婚したとみられるが、李の血縁にあたる人物らは一切表に出てきていない。元幹部の一人は「血統と関係のない人間が閨閥をつくるのを避けている」と説明する。
もう一つは、金正恩の祖母、金正淑だ。北朝鮮は25年12月24日、この日が誕生日にあたる金正淑を追悼する報道をしなかった。金正淑はかつて、金日成、金正日総書記と並ぶ「白頭山三大将軍」と称された。金正淑に対する扱いの変化は、李雪主への対応と足並みをそろえる狙いがあるのかもしれない。
一方、ジュエは25年の北朝鮮の公式報道に何度も登場したが、過去によくみられた「尊貴なお子様」「愛するお子様」という表記は減少した。26年新年祝賀公演を伝える報道にも、ジュエの姿は映像で確認できるものの、記事での説明はなかった。
ジュエは22年11月に初めて公式報道に出現して以降、しばらくは「金正恩と李雪主の子ども」という扱いで、3人そろった姿がしばしば、報道された。25年は徐々に、母親の李の存在を小さくする一方、同時に「お子様」という表現を控えたようだ。ジュエも公式行事への参加にずいぶん慣れたのか、正恩と離れて行動する時の立ち居振る舞いや幹部たちへの挨拶も様になってきた。
ジュエは依然、党員ではなく公式の役職もない。おそらく、大学を卒業して朝鮮労働党で役職を得るまで10年くらいの歳月が必要だろう。それまでは神秘性をもたせる意図もあり、記事での説明もなくなったようだ。ただ、映像と写真を見るだけで十分だ。北朝鮮の人々は「ジュエが次の最高指導者だ」と自然に意識するようになる。北朝鮮の国営メディアは正恩とジュエが手をつないだり、お互いの体に触れたりする写真や映像を公開している。26年の元旦に公開された新年祝賀公演でも、正恩とジュエが手をつなぐ写真や映像が報じられた。北朝鮮を逃れた朝鮮労働党の元幹部は正恩とジュエのスキンシップについて「朝鮮の人々の日常感覚では不快に感じる人も多いはずだ。あえて報道を続けているのは、それだけジュエが最高指導者に最も近い存在だとアピールする狙いがあるのだろう」と語る。
26年も北朝鮮は、ジュエが後継者であることを写真と映像で、暗黙的に国民に周知する作業を続けるとみられる。正恩は26年1月8日で42歳になったばかり。健康問題の懸念はあるが、肉体的にすぐに倒れるということはないだろう。
また、25年は北朝鮮がロシア、中国との関係を強化した年でもあった。韓国国防研究院(KIDA)の分析によれば、北朝鮮はウクライナ戦争でロシアを支援した見返りとして、推定で約28兆7千億ウォン(約3兆円)の経済的利益を得る可能性があるという。これは北朝鮮住民の6年分の食費に相当する。北朝鮮と中国との貿易も回復基調にある。25年11月の中朝貿易額は2億8100万ドル(約422億円)で、19年10月以来の高水準を記録した。韓国農村振興庁によれば、北朝鮮の25年の食料作物総生産量は前年から約12万トン、2.5%増加し490万トンに達した。ほぼ、北朝鮮国内の食料需要を賄える数値といえる。北朝鮮の作物生産が安定してきた背景には、ロシアや中国との関係改善によって肥料や農業用機械の輸入が進んだことが大きいとみられる。
さらに、中ロ両国は北朝鮮の安全保障の請負人にもなっている。ロシアメディアによれば、ロシアのラブロフ外相は25年7月、北朝鮮・元山で開いた朝ロ外相会談の後、「北朝鮮が独自の核開発計画を進める理由を尊重し、全面的に理解している」と述べた。中国は25年9月に習近平国家主席が、同年10月には李強首相が、それぞれ金正恩と会談した。しかし、中国メディアが伝えた会談内容に、中国が従来主張してきた「朝鮮半島の非核化」はなかった。25年11月、中国が20年ぶりに発表した「新時代中国の軍備統制、軍縮と非拡散」と題する白書でも「朝鮮半島非核化の支持」という表現が削除された。
北朝鮮では後継作業も順調に進んでいるようだ。経済も安定し、安全保障環境も悪くない。でも、金正恩とロイヤルファミリーの前途は決して明るいものではない。金正恩ファミリーが抱える5つのリスクがあるからだ。
■リスク(1)「地方」
第1のリスクは「地方」だ。北朝鮮は建国以来、「革命の首都」と呼ぶ平壌の繁栄を第一に考えてきた。平壌市民には特別の「公民証」が発給され、地方の市民は許可証がなければ、平壌に入ることを許されない。地方の農産品や鉱物、水産物などはすべて国が収奪する。北朝鮮を逃れた朝鮮労働党元幹部は「北朝鮮は全て平壌の繁栄のために存在する」と語る。
地方では、一生を生まれた場所で過ごす人も珍しくない。電気、水道、ガスなどが整備されておらず、文化的な生活は望めない。「自動ドア」「エスカレーター」「動く列車」を見たことがないという人も多い。韓国政府当局者が2000年代に北朝鮮の農村を訪れた。農家の壁はワラと泥を固めたつくりで壁紙などはなかった。土間に煮炊きの道具が置いてあった。水は近くの井戸か川で汲んでくる。煮炊きの燃料は練炭があればましな方で、薪を使うが、森林の乱伐の影響で遠くまで探しに行かないと見つからないという。住人に話を聞いたところ、これまで、隣の村に出かけたのが、一番の遠出だった。「生きているうちに、一度平壌に行ってみたい」と語ったという。
それでも、過去、北朝鮮の地方都市に住んでいた人々は、国境地帯を除けばそれなりに幸せだった。比較するものがないので、衣食住に困らない限り、それほどの不満も出なかった。ところが、最近はスマホやCD、USBメモリーなど情報伝達の手段が多様になっている。北朝鮮の人々も自分が住んでいる場所が当局のうたう「地上の楽園」ではないことに気づき始めている。
地方では元々、国に期待感もない代わりに忠誠心もない人が多い。党幹部のような利権を持たないために国に忠誠を尽くす必要がないからだ。平壌は最近、比較的整備された都市インフラを利用し、監視カメラを街のあちこちに設置するなど統制を強化しているが、電力インフラが貧弱な地方ではそういうわけにもいかない。
危機感を覚えた金正恩は24年1月の最高人民会議(国会)で、1年間に20カ所の地方に新たな食品や衣料品の工場や病院などの重要施設を建設する事業を10年間続ける「地方発展20×10政策」を打ち出した。その後、年末になるたびに、施設の完成を祝う北朝鮮国営メディアの報道が連日続く。
ただ、新たな産業工場が建設されても、原材料や工場を運転する電気や水、生産品を運ぶ交通網などの問題が解決されていない。25年の年末に続いた完成式典の映像を見ると、こうした問題点が浮かび上がる。式典には平日、週末を問わず、大勢の近隣住民と思われる人々がスーツやチマ・チョゴリなどの正装で参加する。金正恩ら幹部の演説を、ありがたく拝聴した後、住民は施設内に誘われる。そこで、パンを食べ、醤油をなめ、ジュースを飲んで大喜びする。いかにこの施設がすばらしいかを強調する狙いがあるが、逆にいえば、これまでパンも醤油も満足に手に入らない環境にあったことがわかる。産業工場が今後、住民たちを満足させられる衣料品や食料品を生産し続けられるかどうかはわからない。
もっとも、地方住民のなかには「平壌は、生活は楽かもしれないが、政治活動への参加のノルマも多い。監視も厳しいし、地方暮らしの方が気楽かもしれない」という声が、最近出始めているという。
■リスク(2)「若者」
若者。これは金正恩にとって最も恐ろしい敵かもしれない。1990年代半ば、数十万人とも100万人余とも言われる餓死者を出した「苦難の行軍」と呼ばれる食料難の後に生まれた人々は今、30代になろうとしている。食料や日用品の配給という国の恩恵を知らずに育ったほか、中国や韓国などの影響を強く受けた人々だ。
「苦難の行軍」では、人々は食料を求めて国内をさまよい、北朝鮮当局も黙認した。中には中国まで足を伸ばした人々もいて、中朝間の密貿易が増える一因を作った。若い世代の人々は、密貿易でもたらされた韓国や米国の音楽、映画、ドラマなどに親しんで育った。若い人々に、北朝鮮当局による「北朝鮮は地上の楽園」という宣伝文句は通じない。
北朝鮮はこうした事態を憂慮し、様々な手を打ってきた。2020年に反動思想文化排撃法、21年に青年教養保障法、23年に平壌文化語保護法を立て続けに制定。米国や韓国などのドラマを視聴したり、広めたりする行為を処罰するほか、韓国の言葉や服装を真似ることも禁じた。韓国外交部は23年12月、北朝鮮が在スペイン大使館など七つの在外公館を閉鎖した事実を明らかにした。外交官らが外国の情報や文化を北朝鮮に持ち帰るのを防ぐための措置とみられる。
23年末、金正恩は韓国との関係を「敵対的な二国間の関係」とし、平和統一政策を放棄した。韓国を敵と位置付けなければ、北朝鮮市民が韓国の影響を受け続け、いずれ韓国に飲み込まれるという恐怖感が背景にある。韓国では25年6月に誕生した李在明政権が南北対話を呼びかけているが、北朝鮮は全く応答していない。南北交流でどんなに経済的な恩恵が受けられようとも、北朝鮮の若者が韓国文化にあこがれ、最高指導者に忠誠を誓わなくなったら元も子もない。
だが、当然ながら、これから北朝鮮で世代交代が進めば進むほど、最高指導者を尊敬しない人が増え続けることになる。
■リスク(3)「トランプ」
トランプ米大統領は25年1月の第2次政権発足以降、繰り返し、金正恩と会談したい考えを示している。北朝鮮が「非核化交渉には応じない」と主張していることを念頭に、何度も北朝鮮を「核保有国」とも呼んだ。
トランプは25年10月末に韓国を訪れた際、金正恩との会談を望んだ。結局、実現しなかったが、米朝関係筋によれば、両政府外交当局は当時、万が一首脳会談が実現した場合に備えて実務協議を行ったという。韓国の情報機関、国家情報院も11月4日、韓国国会情報委員会の国政監査で、金正恩が板門店でトランプと面会するかどうか、「直前まで悩んでいた」と報告。26年にも米朝首脳会談が開かれる可能性が高いとの見通しを示した。
北朝鮮は26年初めに党大会を開き、新たな5カ年計画や外交方針などを発表する見通しだ。中国とロシアから経済・安全保障両面での支援を受けている今、北朝鮮が米国との会談を急ぐ必要はないようにもみえるが、北朝鮮問題を長年担当してきた日本政府元高官は「そうではない」と語る。「金正恩は北朝鮮を普通の国にしたいと思っている。不倶戴天の敵である米国との和平を実現し、祖父や父ができなかった業績を打ち立てたいとも考えている」という。26年秋の米中間選挙を考えた場合、同年夏までに米朝首脳会談が行われる可能性がある。
ただ、いくらトランプとの親密な関係があっても、米朝関係正常化は金正恩にとって大きなリスクになる。韓国統一研究院は25年10月、北朝鮮の政治犯収容施設に関する報告書を発表した。中部の平安南道と北東部の咸鏡北道に第14、16、18、25の計4施設を運営し、5万3千人から6万5千人が収容されていると推計した。これだけひどい人権侵害の実態は、深刻な国際問題を引き起こすだろう。
また、トランプが25年12月にナイジェリア北西部の「イスラム国」に対して攻撃したのは、キリスト教徒の殺害への報復が名目だった。米国務省が22年6月に発表した「信仰の自由に関する国際報告書」は、国連の推計として北朝鮮でのキリスト教信者は20万人から40万人と紹介。NGOの調査結果として5万人から7万人のキリスト教信者が拘禁されている状態にあると紹介した。キリスト教福音派はトランプの重要な支持基盤のひとつだ。
いずれ、トランプと金正恩はぶつかる運命にある。
■リスク(4)「女性」
金正恩の周囲には女性が多い。実妹の金与正党宣伝扇動部副部長、崔善姫外相、かつて金正恩の家庭教師を務め恋仲も噂されたことがあり、現在は秘書役を務める玄松月党宣伝扇動部副部長、そして後継者とみられるキム・ジュエだ。
母、高容姫と金正日総書記の結婚を金日成主席が認めていなかったこともあり、金正恩や金与正らは一般社会と隔離されて生きてきた。金正恩が後継者に指名されたのは09年1月で、金正日が亡くなるわずか3年前のことだった。竹馬の友や信頼できる腹心がいないことが、実妹やかつての家庭教師らの起用につながっている。
これが将来、「女の争い」につながる可能性もある。現在、金日成の血筋である白頭山血統で公職に就いているのは金正恩と金与正だけだ。金与正は傍系に属する「キョッカジ(枝)」にあたり、幹である金正恩やキム・ジュエを支える役割を持つ。ただ、金正恩には健康上の不安がある。北朝鮮は21年1月の党大会で「第1書記」のポストを新設した。ジュエが公職に就く前に、金正恩が倒れた場合、金与正が第1書記として「摂政」を務める腹積もりなのだろう。
しかし、ジュエも与正も女性だ。北朝鮮には男尊女卑の空気が根強く残る。北朝鮮の権力を握る「赤い貴族」と呼ばれるエリートたちは、「どうせ、女性を担ぐなら、権力に近い方についた方が良い」と考えるだろう。金与正はすでに外交や対南工作の部署も配下につけている。それなりの実力部隊も傘下に置いているとみるべきだ。金与正がジュエを追い落とす状況に陥らないか、ジュエの母、李雪主はハラハラして見守っていることだろう。
■リスク(5)金正恩
そして、最大のリスクとは金正恩その人だ。北朝鮮は中国やベトナムとは異なり、終身独裁体制を敷いている。このため、最高指導者よりも市民の関心や尊敬を集める存在を許さない。
韓国のウェブ北朝鮮専門媒体、デイリーNKによれば、以前は1キロあたり5千ウォン前後だったコメ価格は25年6月に約1万2千ウォンまで上昇。以前は1ドル(約150円)あたり約8千ウォンだった北朝鮮ウォンの対ドル為替レートは、7月初めには1ドル=3万700ウォンまで下落した。
ロシアや中国による経済支援があるのに、こうした現象が起きるのは、金正恩らが「トンチュ(金主)」と呼ばれる新興富裕層の取り締まりに乗り出したからだ。北朝鮮は10年代後半から市場の営業時間や取扱品目に制限を加えたほか、22年までに各地に糧穀販売所を整備した。自由市場での資本主義の浸透を防ぐのが狙いだった。中国やベトナムがいくら経済改革を説いても、北朝鮮が終身独裁を続ける以上、受け入れる余地はない。北朝鮮が韓国や欧米の文化流入を恐れるのも同じ理由だ。金正恩よりも人気を集める芸能人が出てきては一大事だからだ。
北朝鮮は、金正恩が24年1月に40歳になったことを契機に、新たな神格化事業に着手した。朝鮮中央通信は24年5月、正恩の肖像画が党中央幹部学校で掲示されている様子を報道。同年6月には正恩のバッジを着用した幹部たちの姿も伝えた。こうした動き自体、北朝鮮が終身独裁の維持に苦慮していることを示している。
北朝鮮がいきなり崩壊する可能性は低いだろう。「赤い貴族」が利権を手放すことは考えにくいからだ。ただし、終身独裁を続ける限り、国は発展していかない。いずれ、金正恩とそのファミリーにすべての責任を押しつけ、集団指導体制への切り替えを図る日が来るだろう。金正恩は北朝鮮という権力装置を動かす一機関に過ぎない。第1章以降で詳述するが、北朝鮮国内の権力構造は複雑で微妙なパワーバランスの上に成り立ってきた。独裁体制が揺らいだ結果、起こり得る事態は、日本にとって決して他人事ではない。
「プロローグ」より






