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暴走する大統領か、反日左派か? 韓国社会の闇に朝日新聞元ソウル支局長が迫る!

出典 : #文春新書
ジャンル : #政治・経済・ビジネス

韓国大乱

牧野愛博

韓国大乱

牧野愛博

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 韓国の尹錫悦大統領が2024年12月3日午後10時半ごろに、戒厳令を布告してから約3週間後、私は10日ほどソウルに出張した。社会は表向き平穏だったが、出張中に会った知人たちは異口同音に、「いかに、自分が戒厳令に驚いたか」を語ってくれた。李明博政権で閣僚を務めた知人はシャワーを浴びていた。テレビをみていた夫人が「ヨボ(あなた)、戒厳令」と大声を上げた。知人は即座に「カッチャ(偽)ニュースだ」と怒鳴ってしまったという。朴槿恵政権で在外公館長を務めた知人はベッドで本を読んでいた。高校の同窓生で作るSNSのグループトークが急に騒がしくなった。「戒厳令」という言葉に「冗談だろう」と思ったが、あまりに同じ言葉が飛び交うので、急いでテレビをつけたという。また、尹錫悦政権で閣僚を務めた知人は、会食の帰りで車中にいた。この知人だけは「戒厳令」と聞いて、「ああ、冗談じゃなかったのか」と思ったそうだ。24年春ごろから、酒席で尹大統領は「戒厳令」という言葉をたびたび口にしていたからだ。

 韓国で前回、戒厳令が敷かれたのは、1979年10月、朴正熙大統領が暗殺された時だった。45年前と比べ、韓国社会は大きく変わった。その象徴がスマホだ。79年当時、釜山の軍部隊に所属していた知人の情報源は、部隊の前の通りにある居酒屋の親父だった。釜山は日本の放送電波が届くため、テレビに日本の番組が映る。親父は45年までの日本統治時代を経験しているため、日本語ができた。部隊内部では朴正熙大統領の死去は知っていたが、その後の12月12日に起きた「12.12粛軍クーデター」で当時の全斗煥国軍保安司令官が軍の全権を握ったことは知らなかった。知人が居酒屋に寄ると、親父がこっそり、「全斗煥という人物が軍のトップになったそうだ」と教えてくれた。全氏は当時、少将に過ぎず、全国的に名前を知っている人は少数だった。

「粛軍クーデター」の成功も、軍通信網を保安司令部が握っていたことが大きな要因になった。保安司令部は軍内部の通信をすべて盗聴し、動きを把握していた。このため、抵抗勢力の動きをいち早く封じることに成功した。

 45年後、尹大統領が敷いた戒厳令は約6時間で失敗に終わった。その大きな原因は、戒厳軍が尹氏の意図通りに動かなかったことにある。韓国司法当局が金龍顕国防相(当時)を取り調べた結果によれば、尹氏は事前に戒厳軍を国会議事堂などに配備しておくことを主張したが、軍などが反対して実現しなかった。韓国軍自体の民主化が進んでいたこともあるが、一般兵士もスマホを持つ今の時代、そんなことをすれば、戒厳令の動きが事前に漏れてしまうという懸念もあったようだ。戒厳軍の兵士に対し、テレビを見ていた両親が仰天して「市民に銃を向けたらだめだ」と電話したという話も、知人から聞いた。韓国陸軍の元大将は「今の若い兵士がスマホを見るのは食事と一緒。スマホを与えなければ彼らは死んでしまう」と語る。

 また、12月3日深夜、国会議事堂があるソウル・汝矣島には多くの市民が抗議をするために訪れた。そのなかには、20~30代の女性の姿が目立ったという。女性たちは自分たちの好きな歌を合唱し、曲の合間に「戒厳令反対」と叫んでいたそうだ。1979年当時、殺気立った様子でデモを行っていた韓国市民とは大きくかけ離れた姿だ。野党議員の一人は「それだけ、韓国の民主主義が成熟した証拠だ」と語る。

 こんな風に、韓国社会はこの45年の間に大きく変わった。そのなかで、尹錫悦大統領とその周辺の変わらない姿に驚いた。尹氏は執務中、大統領室の部下や閣僚たちに、「今日はどうするんだ」と声をかけていた。酒席の誘いだ。今の韓国人たちは、予定があるなら「ある」とはっきり答えるが、尹氏にそう答える人はいなかった。みな、「約束はありません」と答え、誘いに応じた。かつての韓国の官公庁や企業、メディアの内部でよく見られた風景だ。飲み方も、尹氏が大好きな、ソメ(焼酎=ソジュとビール=メクチュを混ぜた爆弾酒)がほとんどで、大統領に勧められるまま、みなフラフラになるまで飲んだという。こんなやり方、今の韓国では絶対に通用しない。韓国外交省で課長を務める知人は「課内は女性が多数派。いつもお酒はワインかビール。飲み方はバラバラで強要したらパワハラになる。2次会はほとんどあり得ない」と語っていた。

 尹氏とその周辺だけが時間の流れが止まっていたようだ。それが、戒厳令が今でも通じると尹氏が考えた一番の原因かもしれない。もちろん、保守・進歩(革新)にかかわらず、知人たちの大多数は戒厳令に驚き、心配し、反発した。だから、短時間で失敗した。

 それにしても、なぜ、21世紀の韓国でこのような事態を許してしまったのか。私は強い興味を覚え、ソウルの知人たちに片端から聞いて回った。私の疑問に対する知人たちの答えをまとめたのが本書だ。

 政府関係者、与野党の国会議員、閣僚経験者、政党職員、学者、サラリーマン、外交官、軍人ら、保守・進歩を問わず、彼ら(彼女ら)は、外国人の記者である私に、とても親切に、様々な事実関係や自分の考えを語ってくれた。こうした事実は、誰が韓国の指導者になっても、日本と韓国の関係が簡単には壊れないことを証明してくれていると思う。


「はじめに」より

文春新書
韓国大乱
牧野愛博

定価:1,045円(税込)発売日:2025年03月19日

電子書籍
韓国大乱
牧野愛博

発売日:2025年03月19日

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