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滅びの道を歩む金王朝、揺らぐ世界――北朝鮮の現在の権力構造、独裁体制の行方とは。

出典 : #文春新書
ジャンル : #ノンフィクション

金正恩と金与正

牧野愛博

金正恩と金与正

牧野愛博

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『金正恩と金与正』(牧野 愛博)

夢中で食事を摂る人々

 私が北朝鮮を初めて訪れたのは1997年11月のことだった。当時の森喜朗自民党総務会長が率いる超党派の訪問団の随行取材だった。影の団長は、北朝鮮と深いパイプがあった故野中広務元官房長官。当時、北朝鮮が認めていなかった日本人拉致問題を巡る協議と、北朝鮮で広がっていた飢餓と経済破綻への支援が主なテーマだった。

 私が乗ることになったのは古い型のベンツ。クラッチ板がすり減っているのか、よたよたした走りが記憶に残っている。助手席に乗っていた中年の男性が流暢な日本語で語りかけてきた。「私が案内させていただく担当です。宋日昊と申します」。朝鮮労働党国際部で活躍していた宋氏だったが、97年2月に黄長燁元党書記の亡命事件が発生。黄氏に同行していた宋氏は、亡命を防ぎきれなかった責任を問われて、更迭されていた時期にあたった。彼がその後、日朝交渉を担当することなど、想像もできなかった私は、「愛想の良い人だな」と無邪気に思った程度だった。

 その頃はまだ朝鮮語も話せず、外交取材の経験もほとんどない私だったが、北朝鮮という国の異常性は肌で感じることができた。到着した平壌の順安空港の売店はどこも商品棚が空っぽだった。唯一、古びたガラスケースに幾つかの花束だけが置いてあった。「これは何のために置いてあるのですか」と聞くと、売り場の女性店員が「海外からいらしたお客様はみな、偉大な金日成首領様に花束を捧げる義務があるのです」と誇らしげに語った。

 宿舎の高麗ホテルで昼食を摂ろうと思った。名物だと聞いていた冷麺を頼むと、チマ・チョゴリ姿の女性従業員が冷たい声で「ない」と答えた。何ができるのか、と尋ねると「ラーメンならできる」という。期待して待っていると、白い立派なお皿の上に薄茶色のしなびた麺が載せられて登場した。食べてみると、それはチキンラーメンの味そっくりだった。

 日朝協議が行われている百花園迎賓館の別室で、私は協議が終わるのを待っていた。立派なお盆にキャラメルのようなものが一つ一つ包まれて置いてあった。北朝鮮の人に勧められて口に放り込んだ。硬くてかめなかった。夜、日朝の夕食会に同席させてもらった。私のテーブルの両脇には労働新聞と朝鮮中央テレビの幹部が座っていた。せっかくだから話をしようと思い、両脇をみると、二人はずっと皿に顔をくっつけるようにして、夢中で食事をしていた。メニューはさきいかやアンパン、メインに缶詰のキジ肉料理という「朝鮮式フランス料理」だった。

 郊外の農地を視察に出かけた。ちょうど収穫期が終わった直後だったからかもしれないが、耕作地に農作物らしいものは全く見えなかった。北朝鮮の人々は必死になって、日本の訪問団に切迫した食糧事情を訴えていた。帰途、農地のなかにぽつんと建っていた公民館のような場所から、小さな子どもたちが大勢出てきて、私たちの車列に向かって一斉に笑顔で手を振った。みな、同じような顔に見えてもの悲しかった。平壌市内に入る頃には日が暮れていた。街灯はほとんどなく、大通りといえども、路肩も闇に包まれていた。小さな道に入った瞬間、ヘッドライトが路肩を照らし出した。そこに、無言で帰途に就く、あるいはこれから夜勤に向かおうとしていた大勢の人々の後ろ姿が浮かび上がった。

文春新書
金正恩と金与正
牧野愛博

定価:1,078円(税込)発売日:2021年06月18日

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