「一月九日」に何があったのか
本書は、昨年NHKBSプレミアムで放送されATP賞最優秀賞を受賞したテレビドキュメント番組『ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~』の書籍版であるが、放送では紹介しきれなかった取材記録、また放送後に明らかになった金田一春彦の肉声テープなどから、「2人はなぜ決別したのか」に迫るノンフィクションである。で、ありながら一大ミステリーを読むような興奮と、人間ドラマを見るような切なさを味わえる1冊だ。テレビ取材の範疇を超える学術的裏付けや資料の読み込みには感動すら覚えるだろう。
著者が注目したのは、山田先生が全面的に改訂に携わった最後の新明解、第四版の「時点」の語釈に添えられた用例である。
じてん【時点】「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」(『新明解国語辞典』第4版)
この用例は、初版から第3版までには掲載されていない。平成元年の第4版で初掲載であった。赤瀬川原平著『新解さんの謎』でも、なぜこれほどまでに具体的な日付を記す必要があったのかとつっこまれているほど違和感のある日付である。ここまでなら「変な語釈」で終わっているところだが、著者は、資料を読み進めているうちに出てきた『三国』と『新明解』の双方に携わった柴田武の証言を見逃さなかった。「柴田 ……一月九日かなんかだった。打ち上げがあったんですよ。」(武藤康史編『明解物語』)
こうしてあるひとつの事実にたどり着く。昭和47年1月9日。『新明解国語辞典』初版の完成打ち上げがあったということを。
その日、なにがあったのかは本書をお読みになっていただきたい。
2冊の「辞典」のなぞが「時点」から明らかになっていく。ケンボー先生も山田先生も亡くなったいま、関係者、専門家、家族が、時を経た今だからこそ、静かに真相を語っていく。すでに三省堂を去っていた当時の辞書出版部部長・小林保民(87:取材当時)の証言をはじめ、1月9日の打ち上げから帰ってきた日の様子を克明に記憶していたケンボー先生の家族の証言など、国語史に残る一級資料でもあるだろう。
辞書には個性はないと考えられていた時代。あるべき国語辞典の理想を掲げ、ほぼ独力で語釈を記述し、1冊の国語辞典としてまとめた2人の男の物語。本書は、互いの言語観、辞書観をぶつけあい、現在まで連綿と続く辞書界の二枚看板を作り上げた、2人の巨人の魂の記録である。
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