書評

孫弟子がみた「自然の探求心」

文: 養老 孟司 (解剖学者・東京大学名誉教授)

『鯨の話』 (小川鼎三 著)

 小川の中には二つのことがせめぎ合っていたと思う。一つは純粋な興味としてのクジラ学である。もう一つは医学部教授としての脳研究である。さらに興味深いことがある。東大医学部を定年退職した後、小川は順天堂大学に日本で唯一の医史学講座を創設し、医史学を専攻するようになった。晩年は社会的関心が中心となった。

 話は変わって、私は著者の小川鼎三から解剖学を教わった学生の一人である。その後も浅からぬ因縁があったから、思い出話だとつい小川「先生」になってしまう。そこはお許しいただきたいと思う。

 私が東京大学医学部に進学したのは昭和三三年(一九五八)、解剖学は最初に学ぶ学科の一つである。当時は解剖学第一講座が小川鼎三教授、第二講座が藤田恒太郎(つねたろう)教授、第三講座が新任の中井準之助助教授だった。小川教授はいかにも帝国大学教授の風格が残っていて、学生もなんだか偉い先生みたいだなあと思っていた。なぜそう思うかといって、偉いというのはそういうもの、つまり雰囲気である。どうせ学問的業績なんて、学生にはわかりゃしないからである。

 四年後の昭和三七年、私は解剖学教室に大学院生として入った。指導教官は中井準之助教授、小川教授は前年に定年退官をされて名誉教授、後任として細川宏教授が第一講座教授を継いでおられた。お二人ともに小川門下である。脳研究所の解剖学部門を含め、解剖学教室のスタッフの多くは小川門下だった。要するに私は小川門下の雰囲気の中で自分の研究生活を始めたのである。この本に個人名が出てくる解剖学関係者の方たちは、ほとんど私も存じあげている。要するに私は小川先生の孫弟子なのである。

 それならクジラの話を聞いたかというと、あまり聞いていない。私の直接の恩師中井先生は、捕鯨船に乗っていなかったということもある。乗った方の小川先生の脳研究の直弟子細川宏教授は若くして亡くなられた。大江規玄教授は無口な方で、歯の発生を研究しておられたから、大江先生からクジラの話は聞いた覚えがない。山田致知(むねさと)先生は金沢大学に赴任しておられたから、めったにお会いする機会がなかった。

 この本で触れられた主題で、間接的に私が引き継いだことが一つある。それはクジラのヒゲである。ただしヒゲクジラのヒゲではなく感覚器としてのヒゲである。私の恩師の中井先生は感覚器としてのヒゲに興味を持っておられたが、論文にはしておられなかった。私はトガリネズミのヒゲを調べて論文にした。小川先生は最大の動物クジラに関心を持たれたが、私が調べたのは最小の哺乳類である。べつにへそを曲げたわけではない。ヒゲを調べたのも、じつは先生たちのせいではない。勝手に面白いと思ったからである。なにがいいたいかって、こういうことって、自然にそうなるのである。ヒゲを調べだして、気が付いたら、小川先生も中井先生も調べていた。でもヒゲについては私がいちばん詳しいと思う。当り前で、私がいちばん最後だからである。そのあとがどうなったか、もう知らない。でもトガリネズミのヒゲを調べていたころは、解剖学の研究生活ではいちばん楽しい時期だった。教授選考の時には、なんで医学部なのにネズミでヒゲなんだという疑問が出たらしい。まことにもっともですなあ。

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鯨の話
小川鼎三・著

定価:本体1,350円+税 発売日:2016年04月20日

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