不安をことさらに追求したくない
小籐次シリーズは、私にとって、書いていて楽しい作品です。初めての時代小説シリーズだった「密命」(一九九九年~)は、当初は時代小説のことなんて何もわからず、おのれの知識とエネルギーをすべてつぎ込み、それでも不安で、一冊書き上げるのに二冊ぶんの労力を費やしていた気がします。
五年経って小籐次を始めたときは、ずいぶんと心境が変わっていました。何も力み返って書く必要はないんじゃないか、人間の苦悩を描き出すことばかりが小説じゃないんじゃないか、自分が書けるのは、もう少し力の抜けた、文庫のページをめくったときに読者の心に常に余白があるような時代小説なんじゃないか、と。
だから小籐次は、肩の力を抜いて、気楽に書き始めました。史実を忠実に追いかける小説だと、調べ物もたいへんだし、辛いところもありますが、小籐次はそういう小説ではありません。私の作品の中では「鎌倉河岸捕物控」シリーズと似ています。小籐次は浪人で、鎌倉河岸の主人公・政次は呉服屋の手代、しかも十代の若者ですから、一見まったく違いますが、本人としては雰囲気が通じるな、と思いながら書いています。
そして、その気楽さが、書く楽しさに繋がっているし、読者の方々もその楽しさを感じ、共有していただいている――というのは少々おこがましいですが、でも、書いている本人が楽しくなければ読んでいる人も楽しくないはずだし、私は、悩み多き主人公より、自然体で力まない人物を書くほうが楽しいんです。
昨年、新聞を読んでいたら、有楽町駅で六十代の男が一歳児の頭を殴り逮捕された、という記事が載っていました。ベビーカーが邪魔だったから殴った、ということらしいですが、新聞を前に考え込んでしまいました。
戦後七十年、日本は物質的には大いに豊かになりました。でも今、精神的に不安を感じている人たちがたくさんいる。それは日々のニュースを見ても明らかですよね。日本の先行き、自分の生活、老後、あるいは、これというわけじゃない漠たる不安。
発展の過程で物欲だけを追求し、半面で失ってきたもの、その欠落が何かよくわからない不安を生じさせ、六十男をして一歳児を殴るという暴挙に及ばしめている。そういう面は否定できないんじゃないかと思います。
でも、私は、小説において不安をことさらに追求したくない。読者に楽しんでいただけるとは思えないからです。逆に、あり得なくてもいい、高橋英樹流にいえば「川向こうにさ、女囲ってさ」という気楽さを漂わせつつ、ふだんは研ぎ仕事で地道に日当を稼ぎながら暮らしを立てる――そういう世界を描きたい。不安をいっときでも忘れさせ、赤子を殴る手を止めさせる物語であってくれれば、と念じながら書いています。