新シリーズ『新・酔いどれ小籐次』を始めるにあたって、まず読者諸氏や書店各位にご迷惑をお掛けしたことをお詫びしたい。
『酔いどれ小籐次留書』を作者の都合によって中断させてしまった。シリーズの進行を途絶させることは、作者がいちばんやってはならないことだろう。各出版社には多くの読者諸氏や書店さんから問い合わせがあったと聞く。申し訳なくただ作者の不明と不徳をお詫びするしかない。
ともかくこのお叱りに作者が応える術は一つしかない。酔いどれ小籐次を江戸の市井に放り出したままにすることなく、新たな物語を書き継ぐしかない。これまで以上に神経を尖らせ、集中して『新・酔いどれ小籐次』を始めたいと思う。
新シリーズゆえに『新・酔いどれ小籐次(一) 神隠し』は旧作といささか設定を異にしている。
第一作の『神隠し』だが、おなじみの登場人物に加え、新しいキャラクターを得て、これまでとは異なる時代設定で始まる。それに旧シリーズに登場の駿太郎とお夕の年齢をいくつか年上にして物語は始まった。それは新シリーズが進行するにつれて二人の登場人物の年齢を高くしたことの意味を読者諸氏には理解していただけると思う。
時代小説に転向して十五年、この十月刊の『夏目影二郎始末旅・神君狩り』(光文社)にて二百冊を上梓し、節目を迎える。また偶然にも『夏目影二郎始末旅』シリーズは二百冊目の新作『神君狩り』で完結する。
一つのシリーズが始まり、一つのシリーズが完結する。作者の年齢を考えたとき、新シリーズの挑戦はこれが最後だろう。シリーズの定着には三、四年はかかるからだ。
さて、新作『神隠し』は、江戸の知られざる異界をテーマにした。
昔のことだ。まだ物書きになる以前、インドのラジャスタン地方でドキュメンタリー番組の演出を担当したことがある。そのタイトルバックをとるためにタール砂漠に土地の芸人一家を連れていき、音楽を奏でてもらいながら夜を待った。陽気でありながら哀愁を帯びた音楽の調べに無人と思われた砂漠のどこからともなく人が集まり、夜空に手を差し伸べれば掴めそうなところに満天の星が輝いていた。そして、足元は漆黒の闇で、一歩踏み出せばそのまま暗黒の砂の中に引き込まれそうで、自然界とはかようなものかと畏怖を抱いた。
一転朝になれば色彩があふれるラジャスタン地方が私どもスタッフの前に戻ってきた。
眩しいほどの光があればこそ、夜の闇の深さが際立つ。
江戸の照明は、菜種油に浸した灯心の光や蝋燭のほのかな灯りだ。この灯りの中では人の目が把握できる世界は極度に限定されるだろう。長屋の厠に行こうとすれば灯心の灯りの外には深い闇が広がっていたのだろう。
イルミネーションに照らし出される現代社会から想像もつかない光と闇の江戸世界だ。そんな江戸の異界を私なりに明るく描いてみた。
新シリーズの始まりを以て、作者の我儘を許して頂きたいと切に乞い願う。
熱海にて 佐伯泰英