三代揃って読める娯楽
旧小籐次決定版の作業を進めていく一方で、新小籐次シリーズも、これまで通り年二冊のペースで刊行していきます。二〇一三年に旧シリーズが中断したかのような形で終わってしまったので、ずっと読み続けてくださった方の中には、欲求不満というか、怒りさえ覚えた方もいらっしゃるかもしれません。
その方々に、作者としてどう応えたらいいのか。それは小籐次を書き続けることしかない。ただ、せっかく出版元が変わる、つまり舞台が改まるわけですから、筆者が歳をとったぶん小籐次も歳をとり、旧シリーズとはちょっと違った雰囲気の小籐次にしたいという思いはありました。
一読していただければすぐにわかりますが、旧シリーズの小籐次は、とにかくあっちでも斬り、こっちでも斬る。老境の男が駆け回り、斬りまくっているわけですが、新シリーズの小籐次は滅多に斬りません。妻のおりょうと子の駿太郎がクローズアップされる場面も多いし、全体として穏やかな、目には見えないけれど大事なものに寄り添う物語になっています。
旧シリーズと新シリーズ、どちらも楽しんでいただけると自負していますが、私は、時代小説は高齢者のためだけのものではない、女性も読める、子どもだって読める、三代揃って読める娯楽なんだということは常に意識しています。新小籐次はその側面がより強いということはあるかもしれませんね。カバー装画も横田美砂緒さんの柔らかく、優しいタッチになっています。旧小籐次決定版のカバーも、同じく横田さんにお願いしていますが、新たな読者の方々も目を向けてくださるんじゃないかと期待しています。
やはり私は、常に新しい読者を獲得したい。それが今、売り上げ不振に苦しんでいる町の書店さんへの応援にもなるし、もちろん私自身のためでもあります。活字文化は危機に瀕しています。なんとかして活字って面白いよ、時代小説って面白いよ、というメッセージを、書店さんに送り届けたい。そして書店さんを介して読者の人にそれが伝わっていってほしい。早晩、電子書籍の時代が来るのかもしれませんが、今、私が考えているのはここまでです。この十年で本屋さんが四千軒も減ってしまったという現実。その責任は出版社にもあるし、書き手にもあります。
私が面白い時代小説を書き、それが出版社、書店を通じて読者に渡っていくことによって活字文化が元気になるならば、作家として人間として、これ以上の喜びはありません。
元気でいるかぎり書き続ける
話題は変わりますがこの文章に手を入れる前、同時多発テロ後のパリを一家で訪ねました。一年半ぶりの海外旅行は前々から決まっていたことで、出発直前にあのテロが起こりました。
老夫婦を含む一家三人が観光客然としてテロの地を訪れて迷惑をかけないか、出立の直前まで悩みました。馴染みのパリで格別に訪れる場所はありません。私たちはテロの現場を詣でて犠牲者の平安を祈ることにしました。
共和国広場も一番の犠牲者を出したバタクラン劇場もあの瞬間から「時が停止」したかのようでした。家族や知り合いや恋人や、なんの関わりもない人々が捧げたキャンドル、花束、メッセージ、ギター、写真、本などいろいろなものが山積みになっていました。
週末の宵にカフェでワインを楽しみ、ロックコンサートに酔い、恋人や夫婦でそぞろ歩く「自由」と「特権」を奪ったテロに対し、普段の暮らしを続けることで抗しようとするパリの人びとの勇気に感銘を覚えました。
そう、人には歌い、踊り、読み、書く自由があるのです。そのことを今回の旅で改めて知らされました。
私は元気でいるかぎり、本を、時代小説を書いていきます。
これからも変わらずご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。