類のない帰還報告
どうして好運なのか? とんでもない不運ではないか。連載は中止。手術・摘出・抗ガン剤投与。そのはずだったが、「放射線による四次元ピンポイント治療」なるものを教えられ、治療センターのある鹿児島へ行った。桜島が猛然と噴火して灰を降らせているさなかのこと。放射線照射は1ヶ月あまりつづいた。「ガンが消えた後の私が書くべきものは、原発と放射線治療という奇妙な取り合わせしかなかった」。そこから4編ができた。 「自分の妻が乳ガンや子宮ガンに罹ったら、男はどういう気持ちになるだろうかと秋山は思う」
村田喜代子が並外れた作家なのは、語るのに、語り手を夫にしたことだ。もっとも身近な男だが、子宮など身に持たず、その入口こそなじんでいても奥の感覚は毛ほどもない。夫にできることはせいぜい、妻の治療の間に借りたウィークリーマンションのベランダにこびりついた火山灰を、ゴムホースと棒タワシで削ぎ落とすこと。事後も灰のイメージで通してある。「放射線治療で妻の子宮体ガンが消えたとき、秋山は焚き火の燃えた後の灰を見るような気がした」
類のないガンからの帰還報告である。これまでのガン治療とはまったくちがう。従来の放射線治療とも、まるきりちがう。照射中はボタンのある服のままで、アクセサリーや腕時計をつけていてもいい。咳をしても、くしゃみをしてもいい。村田喜代子は新しい放射線治療の恩恵を受けたお返しに、「四次元ピンポイント」の説明役を買って出た。当事者の妻が、「ゴムホースと棒タワシ」の夫にもわかるように言葉を選び、聞き手の夫の口を通すかたちで語っていく。
「あのう、私たちがかけられる放射線って、原発で出来るのですか」
妻がためらいがちに院長にたずねたときの「生真面目な思い詰めた顔」があるからこそ、ただのX線であって、電気のコンセントがあれば出来る放射線が福音のように聞こえる。不運と好運がないまぜになった8編は、心やさしい市民のための福音書の性格をおびている。
だからこそ最後の1編は「楽園」と題された。数キロに及ぶ洞穴の地底湖で行き迷った人が見たであろう真の闇のこと。読みながら私ははからずも、スロヴェニアとイタリアの国境近くのカルスト地帯で行き合った世界一深い地底湖を思い出した。調査報告によると、まったくの死の世界のはずが、ヘビともトカゲともつかぬ生き物がいた。カンテラの明かりを受けると、肌膚をもたず、内臓そのもののような体をくねらせ、踊るようなしぐさをしたそうだ。
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