第1番、冒頭の一文は「男か女かときかれて、月白(つきしろ)はどちらかと問いかえすと、月白(つきしろ)が女なら男なのかと月白(つきしろ)はわらった」。日本舞踊では、男役を踊ることも女役を踊ることもある。二重らせんのようにまつわりながら、この文章が十回、変奏されていく。
「日本舞踊はもとは歌舞伎ですから、男の踊り方、女の踊り方が細部まで決められています。型が決まっているから、どちらにもなれて、交換可能なのです。一つの踊りのなかで男女が変わることもあります。私自身、二十五年ぐらい日本舞踊を習っていましたが、男役ばかり好んで踊っていましたし、男役を踊りながら、さらに女の真似をすることもあります。一方で私のなかには、性別やジェンダーのない作品を書きたいという思いがありましたから、踊りの世界とうまく合うんじゃないかと思いました」
「私」は「月白」に永い恋をするが、それはついに成就しない。だからといって「私が女なら月白は男だ」というわけではない。
「芸事の世界では、同性同士が恋することもごく普通にあります。特に、片方が未熟な時代には、同性の年長者に一種の恋ごころを抱くのは、ごくあたりまえのことなんですね。どこまでいっても実際にはどちらの性別なのかわからないように書いたつもりです」
恋のために踊りから離れられない「私」は、物書きになりたいと願っている。踊りの圏、物書き仲間の圏、仕事先の圏……切れ切れになりながら、それらの間を縫うように生きていく。唯一、描かれないのが家庭である。
「たしかに家族関係については、『感受体のおどり』ではふれていません。『私』はごくあたりまえの生まれ育ちで、生まれた土地でそのまま育っていったのだと受け取られるように、意識的に排除しました。その後、ここで切り落としたものを見つめなければいけないと思って、家族関係を中心にした『abさんご』を書いたのです」
そのかわり、幼年時代の挿話は多い。
「どなたにとっても幼年時代はいちばん本質的な『感受体』であって、大人になって考えたことは全部、その時代にすでに考えていたんじゃないか。私には幼年時代の感覚をいまだに引きずっているところがあります。普通は忘れたり、常識で修正したりするのでしょうが、どうしてもその感覚を抱えつづけている人間が、物を書くようになるのではないか。そのときに分析しきれなかったものを、今、言葉にしてやりたいという思いがあります」
例えば第43番「走井(はしりー)の組に異国のおとぎばなしをたくみに話す小児がいた」。ある日、その子が語っている途中で時間がなくなり、お話は途中で終わってしまった。「走井」は続きを教えてほしいと頼むが、先は作っていないし、そこまでの筋も忘れてしまったという。
「聞きたかった物語が、書物や記憶や機会がうしなわれたせいではなくて、ただもう純潔に無いということのふしぎは、それまでの物語が走井(はしりー)に見せたあらゆるふしぎのむこうに、照り輝いてまっしろだった」
それが、自分も物書きになりたいと「走井」が願う原点となる。美しい断章である。
「私」は「走井」の作品を愛し、人柄を愛そうとするのだが、共に過ごす時間はおだやかに流れることがない。なぜ、「私」のそばにこういう人物を配置したのか。
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