「『私』の反対側にいる人物が絶対に必要だと思ったのです。初めは『私』を全面的に認め、味方にたつ人物をもう一人別に配していたんですが、甘くなっちゃうので、かなり早い時期に切りました。『走井』は『私』と対立する面を強調して、かなり極端な人物として作り上げました。あくまでも『私』を敵代表として攻撃してくるので、『私』としてはひたすら傷ついてもてあますことになりました」
自分の出自にコンプレックスを抱く「走井」は、世界を敵にまわして戦っている。「私」はその怒りを共有できず、負い目を感じつづける。踊りの世界では富んだ家の子が華やかな役をもらい、貧しい者は下積みの仕事をする。階級というものがこの小説にはあらわに描かれていて、どきりとさせられる。
「みなさん、そのことに触れないようにしていらっしゃるのでしょう。口に出さないだけで、内実は変わらないではないか、とはっきり暴いてしまったのかもしれません。私は小学校三年生で終戦を迎えましたので、高校時代までは戦前の感じをひきずっていました。小中高一貫のミッションスクールには階層意識が根強くて、口には出さないけれど、みな観察しあっていた。ただ、畏れ多くも帯に引用されているプルーストや源氏物語にも、そのような構図ははっきり、あるわけですよね。いずれもさまざまな階層の人間を描きわけていますし、それはまだまだ未解消のことではないでしょうか」
ちなみに本作では、何十年もの時間の流れを扱いながら、時代の限定がなされていない。作中の「私」がいくつで踊りを習い始めたか、いつ戦争が始まったか、『abさんご』とは異なり、一切書かれていない。しかし、物語の語られる時点では、「走井」の怒りも苦しみも過ぎ去ったことである。「私」は過去に向かって、哀惜の念をもって、語りかけるのだ。
「それぞれの人物と『私』との関係性は、時間が経つにつれて変化していきます。何十年かの時間の流れを扱ったときに、必ず変質が起きる、というところも書きたかったことです。すべての関係が同じように変わるわけではありません。ただひとり『走井』に関して変質が起きていないのは、どこかの時点で死んでいるからなんですね。ああいう人物はとてもじゃないけど長生きできないでしょう」
鮮やかなのは、恋と踊りのライバルである「練緒」の描き方である。肉がかさばるいまの断章と、ほっそりして利発だった幼年時代の断章とが続けて配置されることで、時間の流れがはっきり見えてくる。
「かろやかな人物がだんだん重たくなっていくのを書きたくて、『重い練緒』と『軽い練緒』を対比させ、『私』にとっての変化を書いていきました。最後に赤ん坊にすることを思いついたときには、自分でも、ああ、これでこの人物が終われるなと思いました」
「私」はいろんな人の運命を見守る。そのなかには高名な作家もいる。「私」は踊り手として、「語池」と「歌城」の知遇を得るが、二人はそれぞれに自らの生を「完結」させるのだ。すぐれた踊りの先輩も自殺を遂げる。美しかった「月白」も老い、こわばりをむきだしていく。時間の残酷さが踊りの世界において、よりあらわなのはなぜだろうか。
「物書きには、肉体的な老いはあまり関係ありませんからね。『月白』への恋は、もともと外貌の美しさから始まったもので、それが衰えていくとき、相手を冷たく観察しているところもあるわけですよね。恋が冷めるというより、こじれてねじれていく。諦めるというよりはむしろ、相手自体が廃墟になってしまう。それを最後まで辿りつくしてしまおう、というところがある。そのことを、作品のはじめと終わりにきちんと置こうと思いました」
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