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弥子とニコのつぎの目標は小説家デビュー。その先には芥川龍之介賞の受賞が目標として掲げられる。
芥川賞候補になるのは、半年間におもに「文芸五誌」と呼ばれる雑誌に掲載された小説だから、弥子は〈たったの百三十コから芥川賞の受賞作が誕生するらしい〉と当たりをつけ、〈感想文より倍率低いじゃない?〉と言う。乱暴な話だが、言われてみればそのとおりだ。だから賞を崇拝しているわけではない。
〈その筋では顔となっているひとたちにお墨付きをもらったら、自動的に値打ちが上がり、絶対的な評価が決まる、というシステムを信じ切っているひとが、今どき、何人いるのだろう。〔…〕いたとしても田舎者か老人のどちらかにちがいない〉
と割り切ったうえで、それでも賞を獲るのが有効だと思っている。
もちろん、自分の過剰さを持て余す弥子も、欠落を抱えたニコも、それはそれとしてやっぱり一〇代の子どもだ。彼女たちは自分自身をそうそういつもうまくコントロールしおおせるとはかぎらない。
大人にとってでさえ、そんなことは難しい。言うことを聞かない、いつ自分を裏切るか知れたものではない生身の心身で、だれだって生きていくしかないのだ。
ふたりは果たして作家デビューできるのだろうか?
6
このあとの展開には触れないが、筆名〈堂上にこる〉の公募新人賞応募作「あかるいよなか」が弥子によっていかにして“書かれた”か、という部分の着想に驚いた。弥子の着想でもあるが、なにより作者の着想である。
村上春樹の『1Q84』に、美少女「ふかえり」のラフな原文を主人公の天吾が調整して「空気さなぎ」という小説にして芥川賞に迫る、という展開があった。『古事記』の編纂方法にも似たこの作りかたは、いわゆる「個人の仕事」としての近代文学(近代芸術)と、そうではないなにかの境目に位置している。とはいえ、あくまでぎりぎり「個人(ふかえり)の仕事」の側に立っていた。
これにたいして、『てらさふ』のふたりがやったこと──アウトプットとしての「あかるいよなか」四〇〇字詰原稿用紙換算一一八枚それ自体ではなく、そこにいたる方法と、その方法へと彼女たちを後押しした動機──は、そういう近代の文学とか芸術というものの外に着地している。
この着想はなにに似ているだろうか? ボルヘスの有名な短篇小説か? 奥泉光の『モーダルな事象 桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活』か? あるいは(これまた奇しくも田舎のライオットガールズ的少女の友情物語である)嶽本野ばらの『下妻物語・完 ヤンキーちゃんとロリータちゃんと殺人事件』だろうか?
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