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表現の世界はいま、二世紀あまり続いた「個人の仕事」の時代の果てに来ている。シミュレーショニズムもヒップホップもボーカロイドも通過した。人工知能だって詩や散文物語を書いている。
それでもいまはまだ、表現が「個人の仕事」だと思われている。だからこそ多くの個人が、「ここまでうまくいかなかった人生」の恨みを賭け金にして、表現の世界での一発逆転を狙っている。
「自分はこの現実世界で不当なあつかいを受けている。表現の世界ではもっと評価される“べき”だ」と思い、「表現の世界はそんな自分にスポットライトを当てる“べき”だ」と思い、そうである以上「表現の世界は公正である“べき”だ」(本意としては「もっと私を評価す“べき”だ」)と思うようになる。
これが、多くの人──弥子の表現を借りれば〈田舎者か老人〉──の頭の中で「文学とはなにか」という問いが「文学とはなんである“べき”か」というルサンチマン的な「贋の問い」についすり替わってしまう理由だ。“べき”って、これくらい薄汚い言葉なのだ。『てらさふ』のなにが新しいかというと、主人公ふたりの行動の動機に、そんなルサンチマンが感じられないことだ。
もちろん小説の冒頭で弥子は自分の現状に不満だし、弥子が読書感想文のキャラづけに使ったように、ニコの境遇は同情に値する。けれど読んでいて、このふたりは被害者意識を感じさせない。作者がそう設定しなかったのかもしれない。だから読んでいるあいだ、ふたりを応援できたし、いっぽう、ふたりを哀れに思うようなタイミングは訪れなかった。
弥子は現状に不満だけれど、現状を恨んでいない。そこからさっさと脱却したいだけだ。世間をあっと言わせたいという自分の欲求に誠実に向き合って、それを淡々と実行に移す。
弥子は、文学が自分に存在価値や正当性を与えてくれるだろうとか、だから文学の世界は私を評価する“べき”だとか、そういういじましく小汚いことは考えない。小説の結末の弥子の姿は、まるでバルザック『ゴリオ爺さん』のエンディングのラスティニャックのようだ。
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