たとえば、ウィキペディア風に書くとこうなる。
十村十枝子(とむらとえこ)は日本の芸術家。女優を振り出しに演出家、グラフィックデザイナー、小説家、写真家と、それぞれの分野で才能を発揮、「羽化しつづける蝶」にたとえられた。小説家としては処女作で芥川賞を受賞。グラフィックデザイナーとしても国際的な賞を受け、セルフポートレートは英字紙で絶賛された。
加えて、十村十枝子はたいへんな美人である。スタイルも抜群だ。先に書いた業績は20代で残したものだというから恐れ入る。昭和40年代半ばに突如として現れた、とてつもない才色兼備だ。
残念ながら実在はしない。十村十枝子は『人間昆虫記』(手塚治虫著・秋田文庫)のヒロインである。もうひとつ残念なのは、彼女の業績がオリジナルではなく、模倣によるものだということだ。
十村十枝子は、劇団で役者の勉強をしているうちに「相手になりきる術」をおぼえた。しかも、「みなりだけではなく 心や――能力まで!」なりきることができた。
模倣だけでなく、盗作もする。十村十枝子は目的のためなら手段を選ばない。彼女は平気でひとを踏み台にする。ばかりか、殺したりもするのだが、よく分からないのは、そもそもの目的である。彼女は、脊髄反射的に(ほとんど無邪気に)模倣したり盗んだりしているように見える。
「フクロウそっくりに化けた(フクロウの顔を盗んだ)蝶」のように、「生まれつき」「似せることで身を守る」術を「知っている」という科白を信じれば、彼女の目的は身を守ること、になる。つまり、生きのびるため。となると、それはもはや本能だ。なるほど、詰(なじ)られてもキョトンとしているわけだ。
しかし、十村十枝子が「生まれながらにその中で最も安楽に生きのびる方法を知っていただけ」の「つまらない平凡な女」だというのはどうか。愛する十村十枝子にすべてを奪われ、挙句捨てられた男の言い分ではあるのだが、にしてもどうか。