本書は、《別册文藝春秋》二〇一〇年一月号から二〇一一年五月号にかけて連載され、二〇一一年八月に文藝春秋から刊行された(同年、第二回山田風太郎賞の候補に選ばれている)。
著者は二〇〇四年、『冷たい校舎の時は止まる』で第三十一回メフィスト賞を受賞してデビューした。初期は作中人物と同世代の若い読者層を主なターゲットとし、ファンタジーやSFの要素も含まれていた著者の作風が、よりリアルな方向へと変化を見せはじめたのは、卒業から十年目に開かれる高校のクラス会をめぐって、かつてのクラスメートたちがそれぞれの過去を思い出してゆく『太陽の坐る場所』(二〇〇八年)あたりからだろうか。この『太陽の坐る場所』と、地元を嫌い上京してライターになった女性が、母親を殺して逃亡した幼馴染みについて調査する『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(二〇〇九年)、そして本書は、著者の作品の中でも地方社会の孕む息苦しさを扱った系列に属しているが、暗鬱な読後感という点では本書が飛び抜けている。
主人公は、ある県の山岳地帯にある睦ッ代(むつしろ)村の村長の息子で、高校二年生の湧谷広海(わきや・ひろみ/著者の作品には女性を主人公とする青春小説が多いけれども、本書は男性主人公である点が珍しい)。彼はある夏の夜、村おこしの祭典であるムツシロ・ロック・フェスティバル、通称ムツシロックの会場で、この村出身の芸能人、織場由貴美(おりば・ゆきみ)の姿を見かけた。彼女は広海より八歳年上で、出演した映画が海外の大きな映画賞にノミネートされたこともあって一時期はよくメディアに登場していたが、今では目にする回数が減っていた。この夜を境に、由貴美は睦ッ代村の実家に戻って住むようになったらしい――彼女の母親が死んでから、誰もいない廃屋のようになっていた家に。彼女は村が生んだ有名人ではあるものの、「田舎を嫌い、村を嫌い、ここの出身だっていうのに、村をPRすることはおろか、大人たちに挨拶もしに来ない、恩知らずな小娘」として、住人たちからはあまり好意的に見られていない。
フェスの夜から十日ほど経って、鬱蒼たる森に包まれた人造湖である水根湖のほとりで、広海は再び由貴美の姿を目撃した。何故か泣いていた彼女に声をかけた時、広海は彼女に強烈に惹かれている自分に気づく。やがて、彼女からの電話で呼び出された広海は、驚くべき相談を持ちかけられる。彼が村長の息子だというのは承知の上で、村を売る手伝いをしてくれないかというのだ。彼女は告げた、「私は、この村に復讐するために帰ってきたの」と――。
本書の前半は、広海の由貴美に対する一途な恋情が物語を動かす。広海には織場門音(かどね)という幼馴染みがいて彼を慕っているが、彼のほうは冷淡に距離をおいている。そこに現れたのが由貴美である。広海のことを唯一の友人と見なしている日馬(くさま)達哉(睦ッ代村に繁栄を齎(もたら)した東京の企業・日馬開発の社長の不良息子)が、中学生だった頃から英恵という年上の家政婦兼愛人を侍らせているのに対し、広海は優等生であるぶん、恋にも性にも免疫がない。過去には異性に仄かな恋愛感情を抱いたことくらいはあるのかも知れないにせよ、恋という感情が、時には狂気に近いほどの激情であり、冷静な判断力を失わせるものであることは知らなかった筈だ。その激情に取り憑かれた広海は、たちまち前のめりになる。