書評

承認をめぐる闘争の修羅

文: 三浦 雅士 (文芸評論家)

『妖談』 (車谷長吉 著)

 疑いなく車谷長吉はここで「人の顰蹙を買うような文章」を書いているのだ。だが、 それは件の大学教授が誰であるかという次元においてでは必ずしもない。人間の自尊心、虚栄心があまりにもあからさまに描かれているから、「人の顰蹙を買うような文章」になっているのだ。要するにこれはどこにでもある話なのである。そしてそれがどこにでもある話であるのは、そこに示された人間の虚栄心や自尊心、さらにまた打算の仕組みが人間に本質的なものだからである。件の大学教授は赤面したのである。赤面して授業を打ち切った。誰でもそれくらいの自意識は持っている。おそらく母校の教壇でこんなヘマはしなかっただろう。定年退職した後に教えることになった私立大学の学生を甘く見ていたのである。甘く見ていた自分の失敗に赤面したのだ。そういった心理の機微まで含めて考えると、このエピソードはいっそう真実を衝いていると思われる。エッカーマンの『ゲーテとの対話』を読めば、同じような虚栄心や自尊心がエッカーマンはもとより、ゲーテ自身にさえあったことがよく分かる。文豪も大学教授も学生も違ったものではない。

 人間心理のこの機微は、私小説的な手法によってもっともよく抉り取られると、車谷長吉はある段階で確信したと言っていい。「えッ、誰が大学者なの。」と言うこと自体、すでに私小説的な手法を発揮しているのである。それは、人の自尊心、虚栄心、劣等感が丸見えになった瞬間、なった場所を指摘する手法である。指摘するためには、こちらの自尊心も虚栄心も劣等感もすでに十分に傷ついていなければならない。そういう体験 をしつくして、これ以上傷つきようのない場所、次元に立っていなければならない。少なくとも、理念としてはそうでなければならない。

 たとえば短篇「辛抱」にその手法があからさまに採用されている。「わたくし、男の人とああいうことをするのは厭でございますわ。」と言う女に、作者を思わせる語り手は「あなたのお父さんとお母さんが、毎晩すぐしたがったから、あなたが生まれて来たんでしょ。」と言うのである。さらに、「あなた、猫の避妊手術はするけど、自分はしない。凄いですね。」と言い募るのである。何を気取って綺麗ごとを言っているのか、自分が矛盾していることに気づかないほど愚かなのか、と詰問しているのである。

 自己矛盾まで冒して綺麗ごとを口にしてしまうのは虚栄心があるからである。自尊心があるからだ。自分が結婚していないことには相応の理由があると言いたいのである。そしてこの虚栄心や自尊心は、社会のなかのさまざまな序列の、その序列を気にせざるをえない立場の人間にいっそう強くなる。車谷長吉はそう考えている。真実である。

 政治家にも官僚にも小説家にも序列がある。大物もいれば小物もいるのだ。大学にも会社にも料亭にも序列がある。一流もあれば二流もあるのだ。板場の板前にも序列があり、仲居にも序列がある。社会の上から下まで、序列のないところはない。人はその序列を気にして一生、右往左往するのである。優越感も劣等感もそこに生じる。厄介なことに、優越感も劣等感も、それを感じていない振りをすればするほど、いっそう強くなるのである。

 車谷長吉はそういったことに恬淡としたいと考え、「雲水になり、併し位の高い坊さんなどは決して目指さず、一雲水として、どこかで野垂れ死に」することを望んだ。つまり、あらゆる序列を、つまり名利を超越することを望んだ。しかし、そうは問屋が卸さなかった。優柔不断だったためにそうは行かなかった、と車谷長吉は書いている。だが、そうではない。優柔不断だったからではない。序列を意識する気持が強すぎたから、優柔不断になったのである。名利への関心が強すぎたから雲水を目指したのと同じだ。

 小説を書くということは、自尊心、虚栄心、劣等感といったものが、人間社会においてどのように働くか、克明に観察し過不足なく記録することにほかならない。というより、社会とは自尊心、虚栄心、劣等感──車谷長吉によれば「人間精神の三悪」──から成り立っているのである。そしてその機微を徹底的に写し取るためには、書くものが自分自身もまた「人間精神の三悪」に徹底的に染まっていることを自覚している必要があるのだ。つまり、小説を書きたい車谷長吉は、人一倍、自尊心も虚栄心も劣等感も強くなければならないのである。当然のことだ。そうでなければ、人の自尊心や虚栄心や劣等感を鋭敏に感じとることなどできはしない。

 自尊心、虚栄心、劣等感は、人が自分をどう見るかということにかかっている。この「人間精神の三悪」が社会に根源的であるのは、「自分という現象」、「私という現象」が、じつは私自身の眼によってではなく、人の眼によって決まってくる現象だからである──だいたい私自身の眼など存在しない。それはつねに人の眼、他人の眼である。一雲水として野垂れ死にするとはその他人の眼から超然としていたいということなのだが、それは要するに人間であることを止めるに等しい。車谷長吉は、人生の無常を歌った中世の歌人、西行の矛盾を痛烈に批判しているが(「目」)、一雲水として野垂れ死にすることにしても西行と同じような矛盾を冒すことになるのである。自殺と同じだ。人は、自尊心、虚栄心、劣等感がなければ、自殺しない。同じように、それらがなければ雲水になどなりはしないのである。

 人は承認をめぐる闘争を生きる動物であると述べたのはヘーゲルである。これは、他人が自分をどう見るかということが、他の動物にとってはいざしらず、人間にとっては──じつは鳥類や哺乳類一般にとっても──決定的だということである。

 いや、そんなことはない、自分は人に承認されなくとも生きていける、などといった次元の話ではない。人間がこの世にあって生きているということは、端的に、承認をめぐる闘争に勝利してきたということなのである。生まれ出て激しく泣いた瞬間に、赤子はすでに他者の承認を求めているのだ。そしてこの最初の承認をめぐる闘争において、赤子は完璧に勝利する。つまり、昼夜の別のない理不尽な泣き喚き──それはほとんど攻撃である──にもかかわらず、母は一方的かつ全面的にそれを受け容れるからだ。すなわち乳房を含ませるのである。母あるいはそれに相当する存在が赤子を受け容れなければ、その赤子は生存できない。自明である。泣き喚くことによって食事を得るということ、すなわち人に認められるということがなければ人間は存続できないのだ──ここでは詳述しないが、短篇「二人の母」が萌芽的に主題にしているのはこの事実であり、だからこそ恩田香苗という名は強く記憶に残るのである。車谷長吉は、人間にあってはこの原初的な段階においてすでに齟齬をきたす例があると、なかば本能的に考えているのである。

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妖談車谷長吉

定価:本体560円+税発売日:2013年07月10日