一本の台湾映画に魅(ひ)かれて初めて訪れた台湾で、運命的な出会いをした。夕暮れのバス停で待っているわたしに一直線に向かってきて話しかけてきた男性がいた。「日本からお越しですか?」。あまりに流暢(りゅうちょう)な日本語に驚いた。男性は七十歳代の台湾人の小柄なおじいさん。自分が子供のころにかわいがってくれた日本人教師に会いたいということを一生懸命話してくれた。いまから十二年前のことだ。
立ち話だったこともあり、バスが来て話の途中で別れてしまった。バス停が遠くなっていくにつれ、「日本人の先生を探してあげることだってできたかもしれない。どうしてゆっくり最後まで話を聞いてあげなかったのか」という思いがこみ上げてきた。
台湾から戻ってきて、そのおじいさんのことが頭から離れなかった。結果的にこの出会いによって、台湾と日本の歴史に気づかされ、台湾の日本統治時代を知るいわゆる“日本語世代”を取材するに至った。
日清戦争後の一八九五年(明治二十八年)から第二次世界大戦日本敗戦の一九四五年(昭和二十年)までの五十一年間、台湾は日本の統治下にあった。戦後は中国国民党の軍事独裁体制を経て、一九八七年(昭和六十二年)に戒厳令が解除されて以降、民主化が進んでいる。
わたしが出会った人たちは、日本統治時代に青少年期を送り、人生の半ばで統治国が日本から中華民国に変わった。彼ら台湾人にとっては、日本も中華民国も外来政権以外のなにものでもない。彼らはすでに七十年を超える自らの人生を振り返り、日本への「悔しさ」や「懐かしさ」がないまぜとなった複雑な気持ち、現状への「無念」や将来への「希望」を語った。
取材した方々とは二つの方法で出会っていった。ひとつは、九州より少し小さい台湾を電車でぐるり一周し、途中下車しながら「日本語を話せる人いませんか?」と訪ねて歩く方法。もうひとつは、人からの紹介。一番印象的だったのが、取材に行き詰っていた時に前者の方法でめぐり会ったあるおばあさんとの出会いだ。
日本統治時代に日本人が経営していた珈琲(コーヒー)農場があった地域を訪ね、ある珈琲店に立ち寄ったとき、昔、珈琲農場で働いていた人がいるという話が出た。「会いたい!」と言うと、店主が彼女の自宅まで案内してくれた。家のそばの畑から出てきたおばあさんの、日焼けしたほっぺに明るい笑みをたたえたその顔を見たとき、探しものを見つけたような気がした。彼女は家庭の事情で学校に行けず、日本語は農場で覚えたもので片言だったが、そんなことは関係なかった。台湾の大地のようなおだやかな存在に出会えた。