母親の死によって繙(ひもと)かれた25年前のマンガ同人誌。それは中学3年の文化祭にマンガ同好会のメンバーが制作したものだった。当時の想いが、時代も場所も性別も越えてつながっていく――。6篇の連作短篇集をまとめられた笹生陽子さんにお話を伺います。
――物語の鍵となるのはマンガの同人誌。小説の同人誌もあるなか、あえてマンガを選ばれたのに理由があるんでしょうか。
笹生 物心ついたころから作家になりたいと周りに公言するくらいだったのですが、高校時代はマンガ研究会に入っていました。だからマンガには縁が深いんです。実は15歳のときに「ぶ~け」という少女マンガ誌でプロデビュー候補生になったんです。中学生くらいだと物語をそこそこ考えられるので、マンガを描いて投稿していました。その頃はケント紙を買って来て、サイズにあわせて切って、鉛筆で下書きして、烏口で線を引いて……。高校生のときは2席とか佳作に入りました。デビュー候補生となると、1月から12月までの、その年にデビューしかかっている人たちや受賞者が同期になって、集まって食事会をしたり勉強会をしたりするんですね。高校1年生だと最年少組で当然自分よりも上の大学生とかが多く、夜の街に連れていってもらって、当時のディスコで踊ったりしてすっかり遊び癖がついちゃいました。大学1年の頃は同期に一部人気の出た人なんかがいたので、そこにアシスタントに行ったりして小銭を稼いでいました。
――そのままマンガ家を目指さずに作家デビューされたのはどうしてですか?
笹生 自分はきれいな女の子の顔の正面や横顔なんかは描けるけれど、自転車に乗って漕いでいたりする絵を描こうとすると、もうだめなんですね。大学生くらいになると、うまい人たちと才能が違うというのはわかりますよね。自分の限界に気づいたんです。文章に関しては自分の限界がまだみえなかったので小説を書こうと。でも難しかったですね。今までマンガだったら一瞬で描けたものが、文章で書くとたくさんの言葉を要し、それに自分がいらいらしたので、文章修業にはあまりならなかったです。25,6歳のときまでは、どうやったら言葉を大事にしながら言葉を刻んでいくことができるのかと考えていました。絵のほうに寄り道したから文章が下手になっているなあと思っていたんです。