「復讐鬼」は、信長に背いたため一族を惨殺された荒木村重が、自らの一族を陥れた家臣・中川清秀に復讐を果たす物語。江戸時代の浮世絵の祖とされる岩佐又兵衛(またべえ)は、荒木村重の子とされる。中川清秀は、「荒城の月」のモデルの1つ、豊後岡城(おかじょう)を領した中川藩(竹田藩)の祖である。
又兵衛の美術や滝廉太郎の音楽は不滅だが、荒木村重と中川清秀の野望は、泡のように消えた。だが人間の欲望の中で、権力欲・出世欲・名声欲ほど強いものはない。なぜならば、少しでも神に近づきたいという向上心の別名が、この出世欲だからである。
けれども、人間は神にはなれない。どんな有能な人間であっても、神の視点から見れば、限界がある。信長もまた、神になれなかった男だった。
読者は、土井晩翠の作詞した「荒城の月」の一節、「天上影(てんじょうかげ)は替らねど/栄枯は移る世の姿」を口ずさみ、歴史の闇に葬られた敗者に一掬(いっきく)の涙を注ぐ。 だが朝になれば、生きるために、過酷な業績至上主義が支配する職場へと出陣(出社)せねばならない。
「小才子(こざいし)」は、信長の甥でありながら、家臣となった津田信澄(のぶずみ)が一瞬だけ見た「天下人の夢」を描く。天下人になるとは、人間が神になるということである。だが人間は、「天魔=悪魔」にはなれても、神にはなれない。どんなに才能に恵まれていても、「小才子」に留まる宿命なのだ。
それを乗り越えるには、どうすればよいか。伊東潤は、新しい歴史小説の「天下人」たらんとして、短編集『王になろうとした男』を書いた。彼の野心あふれる表題作には、どんな戦略が込められているのだろうか。
読者よ、短編「王になろうとした男」を熟読されよ。伊東潤が歴史小説界の「小才子」で終わらないために、何を試みたか、とくと見極められたい。
瀬戸内の海に投げ捨てられた彌介が、遠いアフリカまで泳いで帰ろうと抜き手を切る。私は思わず、彌介と一緒に人生の荒海を泳ぎ切ろうと肩に力を込めた。この時、私は伊東潤の可能性を信じたのである。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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