かつて、すさまじい勢いで、日本という国家を変えた男がいた。織田信長である。彼に仕える家臣たちも、夢と野望を激しく燃え上がらせた。
伊東潤の『王になろうとした男』は、信長の大いなる夢にインスパイアされた「家臣=ミニ信長」たちの、峻烈な生と死を描く短編集である。
伊東は、「歴史小説」というジャンルを、大きく変えたいのだろう。信長に託して、伊東は自らが信じる「文学の王国」を作り上げようとする。
ところで、『ジャングル・ブック』で有名なキップリング原作の映画に、『王になろうとした男』(ジョン・ヒューストン監督)がある。これは、ヒマラヤ奥地の王になろうとした二人の男たちの友情の物語だった。
伊東潤の『王になろうとした男』の表題作は、世界全体の王(王の中の王)たらんとした信長と、生まれ故郷モノモタバ(モザンビーク)の王たらんとしたヤシルバ(日本人名は彌介)の心の交流を描く。
だが伊東は、「王になろうとしなかった男」や、「王になることをやめた男」も、短編集に織り交ぜた。そこに、伊東の人間観の真骨頂がある。
桶狭間合戦で今川義元を討ち取る大功を挙げながら、出世競争に加わらなかった無欲の男、毛利新助。そして、信長に背いた後で武士を捨て、「茶人」となった荒木村重。
このように、欲と無欲がせめぎ合う人間の心の領域を、伊東潤は凝視する。IT化の大波にさらされた今こそが、「歴史小説」が生き残れるかどうかの「切所(せっしょ)」である。伊東潤は、信長すら夢半ばで果てた「天下取り」に、小細工なしに挑んでいるのだ。
それにしても、織田信長の時代は、歴史的にも珍しい「出世バブル」だった。人間は大望と大志を抱き、それを実現する手段を工夫し、どこまでも成り上がろうとした。
巻頭の2作「果報者の槍」と「毒を食らわば」は、信長に仕えた同郷の2人の対照的な生きざまと死にざまを描き、内容はほとんど重なる。伊東は、塙直政(ばんなおまさ)という人物の運命を、初めには無欲に徹した毛利新助の視点から描き、次には欲望に翻弄された直政本人の視点から描いた。
この複眼的なアプローチによって信長家臣団の出世争いの熾烈さと、その出世バブルのはじけ飛ぶ必然性とが明らかになる。塙直政は、一時は豊臣秀吉や明智光秀と並ぶほど、出世レースの先頭を切っていた。だが最後には、典型的な歴史の敗者となる。
その敗者の運命から、家臣団を率いる天才信長も免れえない。そのような歴史の真実を説得的に提示するのが、伊東潤の戦略だったのだと思われる。
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