みんなで同じものを眺めてみても、その人の感性や思い込み、能力や才能によっても、まったく違った見識が生まれ、それぞれの作品や結果が出来上がる。
そこへ裁判員を投入して、ひとつの結論を導き、刑罰を与えようというのが、裁判員制度だった。
その結論の中に、死刑という選択も含まれる。
ぼくが見てきた被告人も、みんな違った。
みんな違う姿勢で法廷に臨み、そして判決の瞬間を迎えてきた。
死刑が回避されても、事件と真摯に向き合うことのできない畠山鈴香のような被告人もいた。公判の途中で、自分と他人との立場を重ねあわせた時に、はじめて人を殺すことの罪の重さを知ったオウム事件の死刑判決者がいた。そして、自分の行為ではひとりも殺されてはいないのに、死刑になった被告人すらいた。それも、林泰男の共犯者として。
95年に起きた地下鉄サリン事件で、丸ノ内線を担当した横山真人は、サリンの詰まった袋2つに穴をあけて漏出気化させるべきところを、実行をしくじって1袋しか穴をあけることができなかった。それが影響したのか、横山の担当路線では死者がひとりも出ていないのだ。しかし、地下鉄サリン事件は、いわば東京を舞台とした同時多発テロ。他の実行犯が確実にサリンを撒(ま)いた路線では、計12名が命を奪われている。だから、同時進行の別の世界(路線)の出来事の責任をとって死刑になったのだ。自分が仕出かしたことでは、ひとりも殺していないのに。それどころか、担当路線で2人を殺した林郁夫は、「自首」が認められて無期懲役になっている。
彼らを分け隔てたものはなんだったのか。
死刑と無期懲役の壁は、どこにあるのか。
『1Q84』が世に出るより約1週間前に施行された裁判員制度は、この夏から審理が本格化する。
裁くものと、裁かれるもの。死刑を宣告するものと、命を奪われるもの。普通に暮らす人からは違う世界の出来事だったはずのものが、確実に交錯する時代がやってきたのだ。
「被告人を、死刑に処す」
その言葉を、ぼくはこれまでに何度も耳にしてきた。その度に、生きるという究極の権利を奪われる運命の瞬間を目の当たりにし、法廷の扉の向こうへ消えていく被告人を見送ってきた。死刑の執行書にサインしたことを新聞から「死に神」と呼ばれて激怒した法務大臣がいたが、いうなれば、その門前にぼくは佇(たたず)んでいたことになる。
「死に神」も神様。これからは裁判員が神様と呼ばれることもある、かもしれない。その前に、門前の男の見てきたもうひとつの世界が役に立つ、かもしれない。
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