ブライダル会社に勤めていた麻子は、祖父から受け継いだ古い着物のコレクションに感化され、アンティーク着物の専門店の経営に乗り出す。古い着物の仕入先を捜しはじめたところへ、京都から電話がかかってくる。妻の実家にある大量の着物を処分しようとした桐谷正隆である。それが機縁で2人は出会う。従順で淡白な妻とのセックスに飽き足りない正隆は、女学生みたいに潔癖で天真爛漫な麻子に、新鮮な感動を覚える。麻子にとっても、ほの暗い屈折を抱えた正隆は、初めて出会うタイプの男だった。
一方、桐谷千桜には、伯父から性的快楽を教え込まれた幼時体験のトラウマがあった。伯父から「踏んでくれ」と請われた声を今も忘れられない。しかし夫との夫婦生活では1度も達したことがない。そんな彼女が上京して麻子の家を訪ねたとき、玄関で脱いだ尖ったピンヒールを、帰宅した誠司が目にして激しく動揺する。旧家の矜持を持つ妻への劣等感を抱えながら暮らす彼には、被虐と隷属への願望が潜んでいたのだ。そして千桜もまた、出会った誠司を奴隷のように扱いたい欲望に気づいていくのである。
ただやみくもに性的冒険に突き進むのではない。彼らはみんな、心の奥底に眠るもう1人の自分を、理想の他者によって発掘され目覚めさせられるのだ。こうして両家の夫と妻は、それぞれに日常生活で押し殺されていたの内部のブラックボックスをこじ開けられる。夫婦の間では決して見せなかったもう1人の自分が瞬く間に成長しはじめるのである。昨日までの嘘くさい日常が粉微塵にかき消え、ためらいを押しのけて躯が信じられないくらい敏感な反応を示す瞬間の著者の描写は、本当に生々しく鮮やかだ。
落ちる。飛ぶ。官能の底なしの深淵は、彼らを「もっと深いこと」へ誘ってやまない。そして「果てを見てみたい」と願わせる。
この物語が怖くなるのは、彼らが不倫に埋没するなかで、自分の配偶者のやっていることに気づいてからだ。官能が切なさに縁どられていく。これまで築いてきた夫婦の日常が、今度はそれを失う恐怖とともに、決断を促して立ち上がってくるのである。
本書でじつは私が1番好きな人物は、麻子の祖母のトキ江である。江戸っ子訛りで麻子を諭す彼女の言葉は、「人の倫(みち)」の奥深さを滲ませながら、この物語全体を外側から見守っているようである。つまり本書は、性の冒険だけではなく、その土台にある日常生活のモラルの重みをも抱え込んでいく。それが本書の構えを大きく見せている。
快楽と日常は、ついに同居できないのか。奔放な自由は罰せられなければならないのか。その痛切な問いを投げかける本書は、疑いなく著者の新たな代表作となるだろう。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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