- 2011.10.21
- 書評
会社は自らを相対化できない
文:平川 克美 ((株)リナックスカフェ社長・文筆家)
『株式会社という病』 (平川克美 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#政治・経済・ビジネス
良心的な営業マンは、顧客に正直でありたいという自分と、利潤を最大化したいという会社の要請に忠実でありたい自分との間で引き裂かれることになる。
会社にとっての倫理とは、なによりも利潤を最大化することなのだ。なぜなら、会社には所有者(株主)がおり、所有者はその会社の商品に興味があってこの会社を所有しているのではなく、自己利益の最大化のために賭け金を置いたのである。株主資本主義とは、株主の目的が会社の目的でもあるということだ。会社にとっては、利潤の最大化という目的に合致した倫理が必要なのであり、これに背馳するような一般的倫理というものは、障害ではあっても守るべき優先的な課題とはなりえない。
これは会社に限ったことではないだろう。およそ共同体というものは、その共同体固有の論理と倫理をもってこの世に生まれてくるものであり、それはそのメンバーである個人の倫理とはほとんどの場合、倒立してあらわれる。いや、もっと噛み砕いて言えば、共同体は、共同体外部にある〈法〉にはしぶしぶ従うけれども、本質的には共同体の〈掟〉が〈法〉に優先するのであり、それこそが共同性の強度を担保している。
誤解しないでいただきたいのだが、わたしは、それを悪しきことだといいたいわけではない。ただ、共同体とはそのようなものだと言っているだけである。
極端な例を挙げるなら、オウム真理教の信者にとっては、世間的には犯罪といわれるようなことを進んで実行することが教団倫理の実践だったわけである。
経済成長の罠
会社もまた、共同体のひとつのかたちであり、個人から見れば病的としかいえないような価値観を持った共同体なのである。頻発した企業不祥事は、この会社の病が発症した事例である。
そして、この病をコントロールできるのは、会社の外部にいる人間だけである。もちろん、会社の内部にいる人間がこれをコントロールすることも可能だが、その場合かれは自らが属する利益共同体を対象化、相対化しなければならない。
冒頭の、リスク回避はできなかったという理由もここに存している。
2000年を前後して、日本全体を覆った経済成長至上主義が、会社を相対化する外部まで会社と同じ価値観で染め上げてしまう風潮にあったからである。それは今でも続いており、教育も、政治も、医療までもが、ビジネスの言葉で語られ始めていることが、それを如実に示している。
ビジネスの考え方は重要かつ有用だが、その言葉が届く有効範囲は、本当は極めて限定的であるべきなのだ。そのことの重要性を伝えたくてわたしは、本書を執筆したのだと思う。
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