松本清張は、日本の小説家として、異色の存在といっていいであろう。例えば日本の文壇に伝統的にある、自然主義文学の系譜というものに、属さぬ人である。また私小説作家の系譜というものからも外れた、きわめて特異な人である。それならば、あの松本清張独特の文体。そしてあの他に類例を見ない、人間やそれが属する社会、その背景にある風土といったものに対する描写力。あるいは人間というものがひき起す事件を、じっと見すえる叙述力といったものは、いったいどこから生み出されたものなのであろうか?
映画評論家である私の仮説は、それは映画なのではなかろうか、というものなのである。松本清張の小説がもつ一種独特な、ちょっと日本離れのした、といってもいいような、具体的で映像的な対象に対する描写力。あるいは、それを武器として使って、スケールの大きなテーマを構築していく強靭な発想力といったものは、きわめて映画的とも考えられるものだからである。
周知のように彼は、高等小学校卒業後、会社の給仕となり、印刷屋の版下工となり、やがて苦学の末に朝日新聞西部本社の広告部嘱託となって、四〇歳で小説を発表しはじめた、という人だ。その長い下積みの時代、もっぱら「本を読んで、映画館に出かけ、小説を書いていました」という、当時を知る人の証言がある。
日本文学の伝統的な系譜というものに飽きたらず、それとは発想を異にする小説を書こうとしていた彼にとって、日々の生活のうっ屈をはらし、物を見る新しい眼を養う元となったものは、恐らくその間におびただしくたくさん見たであろう映画というものではなかったのだろうか、と私は思うのである。
例えば小説「疑惑」は、まるでセミ・ドキュメンタリー映画風、とでも形容したいような、ある地方都市の秋の情景の中に、二人の主要人物を置いて、それを映像的に見つめていく描写で始まる作品である。セミ・ドキュメンタリー映画とは、第二次大戦中のアメリカで始まった、実際にあった事件を、その場所にロケして撮影するという、半分記録映画のような、劇映画の作りかた、のことである。俳優陣も、リアリティのある地味な性格俳優たちや、素人の人たちなどが、使われた。実例をあげれば「出獄」(一九四八)「裸の町」(一九四八)といったような、新しいリアリズム手法をふんだハリウッド映画である。
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