そしてセミ・ドキュメンタリー映画は、ナラタージュという話法を使って、ドラマを進行させていくのが、常道であった。ナレーション(画面の外からつけられる解説の声)によって、一つの事件とか、それにかかわる人間たちの関係とかを、画面から客観的に浮びあがらせ、観客を誘導していく、というやりかたである。
新聞記者と弁護士という、二人の主要人物の対話の中から、この小説のいわばヒロインである、「鬼塚球磨子(おにづかくまこ)」という特異な女性の存在と、彼女が起したという「疑惑」がもたれている事件の全体像が、じょじょに客観的に浮びあがってくる、という構成がそれに似ている、といっていいであろう。いわば「間接話法」によって、「直接話法」以上にリアルに、しかも要点をしぼって実に適確に客観的に、「人間」と「事件」が、読者の脳裏に植えつけられていくのである。
他の主要人物たちが、何人も登場してきても、このやりかたは基本的に変らない。むしろ映画のように「映像」を使ってそれをやるのではなくて、「文字」を使った達意の文章によって、自由自在にそれをおこなっていく小説のほうが、読者の想像力をかきたてる方法としてはより面白い、といってもいいかもしれない。まさに松本清張作品の、独壇場とでもいうべき小説作りである。
そしてこの小説のラストは、まるでセミ・ドキュメンタリー形式で作られた、ハードボイルド犯罪映画のラストシーンのような、大胆不敵な、予感的なスリルの盛りあげかたで、プツンと終る。こういう、かなりケレンに富んだ大技を、小説であえて使うというやりかたも、清張の小説ならではの離れ業、といっていいであろう。
小説「疑惑」は、一九八二(昭和五七)年に、松竹= 霧プロの提携によって、映画化されている。製作・監督は野村芳太郎、撮影は川又昂という、「ゼロの焦点」「影の車」「砂の器」「鬼畜」「わるいやつら」などの、松本清張原作の映画化をやってきたコンビによるものだ。そして原作・脚本が何と、松本清張自身である。桃井かおりと岩下志麻という、個性的な女性スター二人を主役に、原作小説が意表をついたやりかたで映画化されている楽しい作品なので、機会があったらぜひ、見ていただきたい。
つづく小説「不運な名前―藤田組贋札事件」も、セミ・ドキュメンタリー映画のような情景描写と、より強固な間接話法的な構成がとられた、作品である。一人の男が、札幌を出発して岩見沢にやってきて、タクシーに乗って月形という町に行く。そして旧樺戸(かばと)集治監である、町営の「樺戸行刑資料館」という施設を見学する。
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