慶應義塾大学の政治学科に学び、そこで教える立場にある関係から、これまで、福沢諭吉がどのような政治構想を描き、それを実現しようとしたのか、そこにはどんな壁や障害、あるいは支援や後押しが存在し、どれが実現し、どれが実現しなかったのか、考えてきた。その思索の一端をまとめたのが、本書である。
福沢は、経済的に、精神的に、社会的に自立した個人が、男女平等の家庭を営み、自治と分権のゆき届いた地域社会を形成し、これを基盤としたデモクラシー、議院内閣制と二大政党制に支えられた政治体制の導入を構想した。国内は、政治権力から超然とした天皇という政治的権威と、立法・行政の両権を束ねる強力な政党内閣によって束ねられ、列強の圧力に抵抗し、独立を保持し、文明化を拡張していかなければならない。当初は江戸時代までの旧態依然たる儒教主義的風潮を打破するための啓蒙活動に従事した福沢だが、明治10年前後から、こうした積極的な政策提言へと足を踏み入れていった。
現在の日本は、議院内閣制を採用しており、内閣はすべて政党内閣である。民主党と自民党の二大政党による政権交代も定着しつつあり、地方自治・地方分権は、目下大きな政治課題として存在し続けている。福沢が構想した通り、天皇に政治的実権はなく、いまだ課題は多いものの、男女は平等とされている。
明治の日本は、そうではなかった。むしろ、こうした構想は危険とさえされた。天皇に大権を付与し、政治権力を継続的に占有し続けようとする藩閥政府にとって、天皇を政治権力から疎外することも、選挙結果によっては政権を失いかねない議院内閣制も二大政党制も、権力を分散させられる地方分権論も、好ましいものではなかった。ここに、自らの理想を叫ぶ福沢と、これを警戒し、監視し、排除しようとする「官」という構図が浮かびあがってくる。「敵」となった「官」の主な担い手は、伊藤博文の懐刀だった井上毅であり、薩摩閥の警視総監・三島通庸であった。
福沢の政治構想が注目され「官」からも「民」からも歓迎されることになるのは、実に敗戦後の占領期のことであった。GHQの占領政策の中で福沢の政治構想、経済思想、教育思想、女性論などは文部大臣から学者、映画監督から教育者まで、さまざまな人々によって取り上げられ、脚光をあびた。民主化を進めたい米国側は、東宝の映画監督に福沢をモデルとしたドラマを作成させ、NHKから流されたそれに多くの人々は感動した。デモクラシーは決して外来の押しつけ思想ではない、自らの歴史の中に存在していたのだ、という希望のメッセージを、福沢諭吉という存在は体現していた。