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いま、あえて福沢を語ること

いま、あえて福沢を語ること

文:小川原 正道 (慶応義塾大学准教授)

『福沢諭吉 ――「官」との闘い』 (小川原正道 著)


ジャンル : #ノンフィクション


 人物の評価というものは、流動的である。時には権力が歴史の編纂や言論の統制を通じて、自らの正当性や社会秩序の維持のために、特定の人物を英雄として描き出し、逆に特定の人物を逆賊として切って捨てることもある。戦時体制下に数多く生まれた「軍神」たちも、「国賊」たちも、その一例である。そして福沢の評価もまた、時代によって大きく左右された。戦時下ではその自由主義的、民主主義的、そして親英的主義ゆえに糾弾され、迫害されたが、戦後はむしろその主義ゆえに「復権」したのである。

 権力が押しつける特定のイメージ。時代が造り出す固定観念、誰もが当たり前だと思っている価値観。こうしたものにただ身を委ね、何ら疑問を抱かず、おのれ自身の思考を構築しようとしない姿勢を福沢は「惑溺」と呼び、嫌った。物事の評価や価値は権力が決めるのでも時代が決めるのでもなく、おのれが、自らの経験や価値観、学問や見識によって下さねばならない。福沢はそう考えていた。自立、私立、独立と彼が呼んだのは、これである。

 その福沢自身の評価が戦争によって大きく変化したことは、「惑溺」というものの巨大さ、そして自立を維持することの難しさを教えている。

 いうまでもなく、福沢が思い描いた政治構想の基本には、自立した個人が存在している。特定の価値観に「惑溺」せず、自立的・自律的に価値判断できる個人こそが家庭を営み、政治参加し、地域社会の自治を担い、選挙によって政権を選択する。それが健全なデモクラシーの姿であった。

 いまという時代にあえて福沢と「官」との闘いの軌跡を問う背景には、福沢が構想した政治的枠組みが構築されたなかで、彼の前提とした個人は形成されているのだろうか、という根本的な問題意識がある。権力やメディアが造り出すイメージや固定観念に縛られ、自由で自主的な思考を失ってはいないだろうか、ということを問い直したいという思いもある。むろん、こんな個人など到底不可能、期待するのは無理だといってしまえば、それで済むかもしれない。福沢やその門下生にはできても、多くの国民には無理な注文だといわれるかもしれない。しかし我々は、それを前提とする政治制度を選択してしまい、いま現実にその中に生き、その政治制度が健全に機能しない限り、停滞する経済も、先行きの長い震災復興も、深刻な財政の改善も、おぼつかない事態に直面しているのである。

 福沢は「惑溺」という精神態度を徹底的に嫌い、自らの意志をもって独自の政治構想を構築してこれを世に問い、「官」と闘い、時代や権力の造り出した既成概念と格闘した。その軌跡が我々に教えるものは小さくない。我々が財布に1万円札を入れているのは、それを紙幣として消費するだけのためではない、ということを、今一度考えてみたい、そんなささやかな著者のメッセージが読者諸氏に届いてくれればと思う。

福沢諭吉
小川原 正道・著

定価:1700円(税込) 発売日:2011年09月30日

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