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吉村昭『羆嵐』のモデルとなった三毛別事件の真実を生々しく綴る大傑作ノンフィクション

吉村昭『羆嵐』のモデルとなった三毛別事件の真実を生々しく綴る大傑作ノンフィクション

文:増田 俊也 (作家)

『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)

 こうして彼らがヒグマに近い仕事に就いているのは実はたいへんなことである。たとえば何百人もいる北大柔道部OBのうち卒業後も柔道や格闘技の仕事に就いているのは、中井祐樹(現在日本ブラジリアン柔術連盟会長)と山下志功(プロ修斗世界ライトヘビー級元王者)の二人しかいないのだから。読者の皆さんも自分のまわりを見まわしてみてほしい。大学時代は同好の士と集まってそれぞれ音楽をやったりスポーツをやったり探検をやったり政治活動をしていたはずだが、大学時代のサークルの世界をそのまま仕事にしている人はほとんどいないだろう。みな卒業時に夢を捨て、自分の背丈にあった日常に還っていくのだ。

 そんななか、なぜクマ研の人たちは、これほどまでにヒグマにこだわり続けるのか。

 それは間違いなく畏怖である。

 成体で最大五〇〇キロに近い圧倒的な大きさからくる畏怖だ。

 ここまで断言するのは、私自身がヒグマに惹かれた所以(ゆえん)もまたこの大きさにあったからだ。圧倒的な大きさからくる人間には抗えない存在感をこの生き物は持っている。ライオンもトラも、成獣でせいぜい二五〇キロ、その倍近い体を持っているにもかかわらず、いまも北海道ではヒグマが悠々と人間の生活圏を歩いている。だから、北海道に住む人たちが感じるヒグマの存在感と、内地の人間たちが想像で語るヒグマのイメージには大きな乖離がある。クマ研に入ったメンバーたちがヒグマにのめりこんでいったのは、北大に入学して初めて北海道の地面に立ったとき、この地続きに巨大なヒグマが何千頭も歩いているという興奮に打ち震えたからであろう。クマ研発足のきっかけは学生たちの「野生のヒグマを直に見てみたい」という憧れから始まっていた。

 柔道部とクマ研の二足のわらじを履こうと思って北海道大学に入学した私はしかし、柔道部の練習が思っていた以上に過酷で、体力にも時間にも余裕がなく、クマ研に入ることができなかった。柔道部在籍時に二度留年した私は引退時四年目のときに書類上はまだ二年生だった。すでに二十四歳、卒業する気も卒業できる見込みもなさそうだったので北海タイムス社に就職してそのまま大学を中退した。これでヒグマとは縁遠くなるはずだった。

 だが、後に編集局長に就く老記者のSさん(当時論説委員)との縁で私のヒグマ熱は再燃する。なにかの打ち上げ飲み会で横に座ったSさんがしきりにヒグマのことを話すので聞くと、実はこのSさんは、北海道のマスコミ界で“ヒグマ記者”と呼ばれている人だった。

「俺はクマ研の設立時にも外部委員のような形で関わってたんだ」

 Sさんは破顔して話し続けた。

 私のような若い人間がヒグマに興味を持っているのが嬉しくてしかたないようだった。飲み会がお開きになっても二人でススキノの安酒場に場所を移して朝までヒグマ談義は続いた。このときSさんから「絶対に読んだほうがいい」と薦められたのが吉村昭さんの『羆嵐』(新潮文庫)、三毛別ヒグマ事件を取材して書いた記録小説である。

 朝九時ごろススキノで別れた私は書店で『羆嵐』を買ってそのまま会社に戻り、休憩室のソファに横になってそれを読みはじめ、一気に引きずりこまれた。吉村さんの乾いて簡潔な文体が、静かにひた忍び寄るヒグマの生態に合って、まさに自分が襲われている感覚にとらわれ、読み終わったときにはシャツが大量の汗で重くなっていた。

 それ以来、私は仕事の合間に資料室でヒグマによる過去の人身事故について調べるようになった。その過程で本書『慟哭の谷』に出合い、ノンフィクションの迫力に震えた。『羆嵐』を超える恐怖がそこには綴られていた。

 少し内容を引いてみよう。

《熊はオドの腰の辺りに激しく咬みかかり、尻から右股の肉をえぐりとり、右手に爪傷を負わせた。

「うわあ!!」

 体が引き裂ける痛みにオドは絶叫した。

 この叫びに思わず手を放した熊は、今度は恐怖に泣き騒ぐ親子のいる居間に戻った。ここで熊は明景金蔵を一撃の下に叩き殺し、怯える斉藤巌、春義兄弟を襲った。巌は瀕死の傷を負い、春義はその場で叩き殺された。この時、片隅の野菜置場に逃れていた母親斉藤タケは、わが子の断末魔のうめき声に、たまらずムシロの陰から顔を出してしまった。執拗な熊はタケを見つけ、爪をかけて居間のなかほどに引きずり出した。タケは明日にも生まれそうな臨月の身であった。

「腹破らんでくれ! 腹破らんでくれ!」

「喉食って殺して! 喉食って殺して!」

 タケは力の限り叫び続けたが、やがて蚊の鳴くようなうなり声になって意識を失った。

 熊はタケの腹を引き裂き、うごめく胎児を土間に掻きだして、やにわに彼女を上半身から食いだした》

 まさに地獄である。

 北海道民は開拓時代からずっと、ヒグマと戦い続けていた。死者三名・重傷者二名を出した札幌丘珠事件(一八七八)、死者四名・重傷者三名を出した石狩沼田幌新事件(一九二三)、パーティー五人のうち三人が殺された福岡大ワンゲル同好会事件(一九七〇)など、毎年のように悲惨な事故が起きている。

 内地の人は「それは昔の話ではないのか。それにヒグマ事故は高い山や知床など、人があまり行かないところで起きているのではないか」と思うかもしれない。しかし実際には、平成に入っても百九十万都市の札幌市内だけで年に百件以上のヒグマ出没騒ぎがあり、襲われて死ぬ者もいる。

 この『慟哭の谷』は、深い山の中の、昔の話ではない。いまも読者が北海道旅行に行って、ほんの数歩、国道沿いの藪の中に入っていけば、そこにある現実である。だからこそ、私たち読む者の喉元に凄まじい恐怖を突きつけるのだ。

文春文庫
慟哭の谷
北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件
木村盛武

定価:737円(税込)発売日:2015年04月10日

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