もし、人生を巻き戻すことができれば。そう考える人は多いのではないか。しかし、勘ちがいしてはいけない。本書はそんな甘い発想の本ではない。主人公の青年エド・ザインは、家族を死から守るために、「時間を巻き戻す」のである。
なぜそんな奇矯な考えにとりつかれたのか。理由は「強迫性障害」。
この病気は、どこからともなく生じる不安のため、非論理的な行動を繰り返さざるを得なくなる精神障害である(かつては「強迫神経症」と呼ばれた)。一日に何度も手を洗う「不潔強迫」や、出がけに執拗に戸締まりを改める「確認強迫」などは、聞いたことがある人も多いだろう。
我々は通常、何となく「大丈夫」という無意識の安心感のおかげで、ふつうに生活している。もし明日、交通事故に遭いそうな予感がしたり、脳梗塞で倒れそうな気がしたら、落ち着いてはいられないだろう。馬鹿げていると思いつつも、何かが気になって仕方がないという経験は、だれにでもあるのではないか。
エドの場合は、最愛の母の死をきっかけに、時の流れる先には死があるという観念にとらわれ、すべての行為をビデオテープのように巻き戻す「儀式」をせざるを得なくなる。階段を上れば後ろ向きに下り、しゃべった言葉は回文のように逆から繰り返す。正確に再現できなければ、一からやりなおし。途中でトラックが通れば、次に同じ音をたててトラックが通るまで、片足を上げたまま何時間も動けない。
結果、エドは地下室に引きこもり、シャワーも浴びず、着替えもせず、「時間を止めるため」に、自分の排泄物をジップロックの袋に詰める日々を送ることになる。
そこへ登場するのが、ベトナム帰りの型破りな精神科医、マイケル・ジェナイクである。彼はすべてのことで患者を優先し、大学や保険会社の指示をものともせず、どんな困難な患者の治療も決してあきらめない医師だった。
このスーパードクターが、懸命な治療で見事にエドの病気を治癒させたというのであれば、本書は凡百の医療美談の域を出ないだろう。マイケルは治療に全身全霊をかけるが、エドの強迫性障害はそれ以上に手強く、容易に改善しない。さまざまな苦労の末、何とかシャワーを浴びるところまでこぎつけるが、些細なことにつまずき、症状は初診のとき以上に悪化する。絶望したマイケルは、やつれたエドを見て号泣。彼は敗北を認め、最初の説明とは裏腹に、エドの治療をあきらめるのだ。
ここがこの作品の出色である。優秀な不屈の医師が、事実上、患者を見捨てる。通常のおめでたいストーリーではあり得ない設定だ。しかし、ここから状況は思いがけない方向に進む。だれよりも深く信頼し、誠心誠意治療してくれたマイケルの涙を見て、エドが変わるのだ。彼はマイケルを失望させた強迫性障害を心から憎み、病気から自力で這(は)い上がることを決意する。エドは必死に病気と闘い、自ら行動療法に取り組み、徐々に症状を軽快させていく。
約一年後、見ちがえるほど自立したエドが、サプライズとしてマイケルに再会する場面は感動的である。
「著者あとがき」にもある通り、マイケルはエドを回復させることができなかった。エド自らが病気と闘い、症状を軽快させたのだ。病気が治っていないという意味で、この作品はサクセスストーリーではない。むしろ失敗物語である。にもかかわらず感動的なのは、ここに嘘やきれい事がいっさいないからだ。病気に苦しむ患者と、病気を治せない医師の泥沼のような闘いが、真摯に描き出されている。
現代は「心の病の時代」と言われるほど、多くの精神障害がある。アメリカ精神医学会の分類(DSM-IV)を見ても、「気分障害」「不安障害」「適応障害」など、いつ自分がなるかもしれない病名がいくつも並んでいる。二〇○八年には、うつ病などの労災認定が二六九人と過去最高となり、うつ病患者総数は、今や一〇〇万人を超えている。エドほど極端でなくとも、何らかの精神障害を抱える危険は、だれにでもある。不登校や引きこもりなど、人生とうまく折り合いをつけられない人も少なくないだろう。エドとマイケルの物語は、そのような人々に、病気を克服するターニングポイントを示唆してくれるのではないか。
エドが症状を克服したのは、必ずしもマイケルの治療のおかげではない。マイケルを悲しませたくないというエドの強い思いが、病気に打ち勝つ力を生み出したのだ。病気はあるが、何とかやっていける。それでいい。その気持を支えに、エドは結婚して二人の娘を持つにまで回復するのだ。
医師はすべての病気を治せるわけではない。しかし、ありったけの誠意を注げば、患者の無限の可能性を引き出すことができる。そういう意味で、本書は患者にも医師にも、勇気と希望を与える作品である。
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