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『空色バトン』解説

『空色バトン』解説

文:橋本 紡 (作家)

『空色バトン』 (笹生陽子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 笹生陽子に初めて触れたのは、さして昔ではない。神楽坂にあるイタリアンだったと思う。僕の書いた作品に重版がかかったので、編集者たちがお祝いをしてくれた。たまたま笹生さんも同席することになり、僕は「ええ、あの笹生陽子かよ」とびっくりした。誰に会っても緊張しない僕が、珍しく緊張した。生で見た笹生陽子は、やっぱり笹生陽子だった。言葉をひょいひょいと惜しげもなく放り出し、その行先なんて知ったことじゃないわというふうなのに、きっちり収まってしまうのだ。彼女が器用で、空気を読み、場をきれいにまとめるため、適切な言葉を放っているわけではなかった。笹生さんはサバンナのライオンであって、ジャングルのトラであって、好き勝手に生きているだけなのだ。だって、おかしいでしょう。空気を読むライオンとか、場をきれいにまとめるトラとか。なるほどな、と僕は思った。こんな人だから、あんな話が書けるんだ。

 食事が終わったあと、僕はドアを手で押さえ、出口の段差に躓かないよう、ちょっとだけ彼女をエスコートした。

「橋本さんはあれだな」

 道路に足を置いてから、笹生さんは言った。

 僕は首をかしげた。

「あれってなんですか」

「女子が信じちゃいけない人だな」

 薄い闇の中、笹生さんはニッと笑った。歯がこぼれた。その白さで、笹生さんがからかってくれているのだとわかった。

 僕の言葉はもちろん決まっていた。

「いつでも電話してください。夜中にパソコンが壊れたときでもね」

「絶対に呼ばない」

「夜中にテレビが壊れたときでもいいですよ」

「なんで夜中ばかりなのよ」

 僕たちは下らないことで笑いあった。彼女の前にいると、いつもはどこかに行ってしまっている誰か、僕の心の中の誰かが、あっという間に戻ってくるのだった。

 ゆうるりと吹く風に、薄い闇が流れていった。

 とてもきれいだった。

 少女みたいに笑っていた笹生さんの笑顔を、僕はまだ、覚えている。

空色バトン
笹生陽子・著

定価:530円+税 発売日:2013年12月04日

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