笹生陽子に初めて触れたのは、さして昔ではない。神楽坂にあるイタリアンだったと思う。僕の書いた作品に重版がかかったので、編集者たちがお祝いをしてくれた。たまたま笹生さんも同席することになり、僕は「ええ、あの笹生陽子かよ」とびっくりした。誰に会っても緊張しない僕が、珍しく緊張した。生で見た笹生陽子は、やっぱり笹生陽子だった。言葉をひょいひょいと惜しげもなく放り出し、その行先なんて知ったことじゃないわというふうなのに、きっちり収まってしまうのだ。彼女が器用で、空気を読み、場をきれいにまとめるため、適切な言葉を放っているわけではなかった。笹生さんはサバンナのライオンであって、ジャングルのトラであって、好き勝手に生きているだけなのだ。だって、おかしいでしょう。空気を読むライオンとか、場をきれいにまとめるトラとか。なるほどな、と僕は思った。こんな人だから、あんな話が書けるんだ。
食事が終わったあと、僕はドアを手で押さえ、出口の段差に躓かないよう、ちょっとだけ彼女をエスコートした。
「橋本さんはあれだな」
道路に足を置いてから、笹生さんは言った。
僕は首をかしげた。
「あれってなんですか」
「女子が信じちゃいけない人だな」
薄い闇の中、笹生さんはニッと笑った。歯がこぼれた。その白さで、笹生さんがからかってくれているのだとわかった。
僕の言葉はもちろん決まっていた。
「いつでも電話してください。夜中にパソコンが壊れたときでもね」
「絶対に呼ばない」
「夜中にテレビが壊れたときでもいいですよ」
「なんで夜中ばかりなのよ」
僕たちは下らないことで笑いあった。彼女の前にいると、いつもはどこかに行ってしまっている誰か、僕の心の中の誰かが、あっという間に戻ってくるのだった。
ゆうるりと吹く風に、薄い闇が流れていった。
とてもきれいだった。
少女みたいに笑っていた笹生さんの笑顔を、僕はまだ、覚えている。