時間の因果を解き放つ
佐々木 もうひとつ山下さんの小説でしばしば指摘されることとして、時間の扱い方、というのがあります。「ギッちょん」が特徴的ですが、ただ「ギッちょん」は小見出し的に年齢の数字が表示されているだけ、分かりやすい。「砂漠ダンス」や「コルバトントリ」、「トゥンブクトゥ」は断章レベルではなくもっと複雑に混じっている。出来事の前後関係、因果関係がバラバラにシャッフルされている。しかもそれを時系列で並べ替えたら辻褄が合う、ということにもなっていない。
山下 7年前のある瞬間のぼくというのは、今もいるんですよ。この瞬間に同時に存在している、あらゆる瞬間の自分が。今ぼくは現在にチューニングを合わせていますけど、これが何かの拍子に狂うんですよね。狂うとやや都合が悪くなるってことだけは分かるから(笑)、ちょっとがんばって今の自分にチューニングを合わせている。小説を書いているときは、そこがちょっと解放されている感じです。
佐々木 それって、ゼロ歳から現在まで、というタイムラインがあって、今は現在にカーソルがきているけど、このカーソルが簡単に過去にとぶ、という話だと思うんですけど、このカーソルは未来にもいくんですか。
山下 そこなんですよ。ぼくそれ、すごく考えたことがあって、ぼくの論理では先にもいくはずなんですよ。
佐々木 ね! 僕も以前『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』で似たことを書いたんです。一種の運命論なんですけど。人は生まれて死ぬ、死ぬ時はいつかやってくることは決まっている。たまたま今にいるけど、神様みたいな視点でみたら過去も未来も同様にフォーカスできる。決定されているんだから。書いたときによく言われたのは「じゃあ自由意志はどうなるの」ということ。自分の意志で未来って変えられないんですか、みたいな質問をされる。
山下 そんなもん、ないですよね。ぼくが右にいきたいから右にいっている訳じゃないんですよ。右にいくからいっているだけなんです。
佐々木 100%同意するんですけど、この考え方は無責任、と言われるんですよ。
ところで、いつも気になるのが、なぜ小説を書き終えることが出来るのか、という問題なんです。とりわけ山下さんの作品は大団円があるとかエンディング・シーンっぽい感じになるとかではないので、どういうふんぎりによって完成がなされるのでしょうか。締め切りですか。
山下 体力じゃないですか。体力が尽きたとき終る感じですね。今の段階でいうと、たぶんぼくは、短距離走者ですよね。
演劇と小説との関係
佐々木 このあたりで演劇のこともおうかがいしたいと思います。劇団FICTIONを主宰されていましたが、僕はそのお芝居を一度も観たことがないんですが、保坂さんから、すごいんだ、というお話をうかがったことがあります。芝居を観ていらした平凡社の方のすすめで小説を書かれたとのことですが、それまで小説的なものを書かれたことはなかったんですか。
山下 ないです。戯曲も30歳ではじめて書いたぐらいやから。もともとぼくは俳優なんで、自分が台本書くみたいなこと、夢にも思わなかったですね。俳優やりはじめた時は、ブルース・リーになりたい、みたいなノリですよね。ほんま、アホですよ。「埒外」みたいな人間です。
佐々木 FICTIONはどういう芝居をやっていたんですか。
山下 どういう芝居……観ている人はゲラゲラ笑ってましたよ。
佐々木 謎が深まるな(笑)。さっき、他人の経験を自分が話すときはもう自分の経験になっている、とおっしゃったじゃないですか。そもそも役者さんっていうのは、たとえば山下さんは山下さんなのに、ブルース・リーの役をやればブルース・リーでもある、ということになる訳ですよね。山下さんが役者でもあることと、自分と自分以外のだれかが混じる、一緒になる、というのはどこかでつながっているのでしょうか。
山下 なるほど。ああ、そうかもしれないですね。えっとあの、耳が聞こえないって言ってた人。
佐々木 佐村河内さん?
山下 あの人惜しいな、と思うんですよね。
佐々木 なにかのフリをする、ってことと関係あるんですか。
山下 そうかもしれない。あの人のやったことって、ただ「嘘ついてた」ってことで終っちゃった。人に曲かかせて、聞こえてたのに聞こえてない、って気をひいて。だけどそれって、ものすごいものになりかけてた、そう思うんですよね。もうちょいいったら芸術やで、って。嘘と紙一重みたいな気がするんですよ、重要なことは。嘘と言われて切って捨てられるものと紙一重だって。
佐々木 単純に騙された、というのとは違うレベルの話なのかもしれませんね。
ところで、山下さんの小説がなにに似ているのか、とあらためて考えると、僕、認知症の人と話したことがあるんですが、実際にその人の頭の中で何が起きているのかは分からないけれど、いくつもの記憶が並立していて、今がいつか、自分が誰か、またここにいるのは自分の子供なのか配偶者なのか親なのかの区別がつかなくなっている。それになんだか似ているところがある。先ほど人生は決定的だという話になりましたけど、末期の目というのかな、人生の最後のところから、認識自体がだいぶゆるくなっていて、色々なことがちゃんと制御できなくなっている状態で見えることを書こうとすると、こうなるのかな、という気もしてきました。
山下 お墓の中から見たらなんでも面白いで、っていう感じはあります。
佐々木 僕や山下さんはせいぜい100年弱くらい生きて、死ぬわけですよね。そして普通、小説が描写するある1人の人間の人生とか、あるいは複数の人間の人生っていう時間は常に有限ですよね。でも山下さんは、その有限な時間の外側にあることのほうを実はやろうとしている感じがします。
山下 それはほんとうにそうです。有限前提みたいなのがすごく嫌なんです。
でもやはり感動してしまう
佐々木 しかし、ずっと今日は、山下さんの小説が、普通に小説と呼ばれているものと違っているところを強調してきましたけど、実際に読むと、普通に読めちゃうし、いわゆる難解な、あるいは実験的なといわれるような小説を読んでいるのとは全く違う印象を受けるわけですよ。感動するんです。喜怒哀楽って言葉で定義できないような複雑なエモーションが読者の中にたちあがってくる。ご自分のなかにそういう強い感情があるのか、それとも書かれた言葉にそれが宿っているのか、そこを知りたいんですけど。
山下 どうなんですかねえ。つながるかどうか分かんないですけど、ぼくは映画でいえばゴダールとロッキーが好きで。ゴダール観て、面白い、すごい、と思う一方で、ロッキー観て激しく感動する。
佐々木 カテゴリーが違いますけどね(笑)。監督名と作品名、役名と。ゴダールみたいな作品なのにロッキーのような感動をする、という訳ですね。
山下 「コルバトントリ」のラストもすごいベタですよ。
佐々木 この作品のあと半年間ほど小説を書かれていない、そしていままた書き始めた、と最初におっしゃっていましたけど、僕、今後の山下さんには、すごく短い作品と全然終りそうにないむちゃくちゃ長い作品、両方書いて欲しい。『砂漠ダンス』に併録されている「果樹園」、短いですけどすごく面白い。いま書いている作品は、これまでの4冊とどういう関係性があるんですか。
山下 いやまだ、ちょっと分からないですね。
佐々木 山下さんはスマホで小説書くんですよね。
山下 そうです。端からは「あのおっさん、ずーっとメールしてるなあ」と思われているでしょうね(笑)。
(2014年3月6日 下北沢B&Bにて)
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