「海苔弁って聞くとさ」
立ち話をしているとき、南伸坊さんが言った。
「条件反射で中学校の教室に戻っちゃうんだよ。で、海苔弁の匂いといっしょに五〇年代とか六〇年代のオールデイズのポップスがよみがえってくる」
海苔弁とオールデイズのポップス! おもしろいなあ。中学生の伸坊さんが海苔弁をぱくついている様子が目に浮かぶ。海苔弁の匂いにポップスのメロディがまとわりつくなんて、なんだかどきどきするではないか。かなりすてきな海苔弁だ。
海苔弁がひとの記憶の扉を開けるのは、ごはんにぺったり貼りついた漆黒の色だろうか。海苔がふやけて湿った匂いだろうか。それとも、みちっと四角い面積の迫力だろうか。なににしても、海苔弁は、ひとのこころのどこかだいじな場所に座っているもののようだ。わたしの友人に、海苔弁は無敵の存在だと言い切る男がいる。高校生のとき、早弁しないと昼まで持たないから母親がふたつ弁当を持たせてくれた。そのうちのひとつが、おかずなし、表面がまっ黒の海苔弁だったという。休み時間にがつがつ海苔弁をかっこむと、腹にちからが宿った。だから、海苔弁を食べると無敵な気分になる――。
海苔弁は、ひとを無防備にさせる。とても簡単な味なのに、食べていると一心不乱になり、見えないナニカに庇護される。それはきっと、海苔弁はひとりで食べるからだ。誰かと共有するのではなくて、自分ひとりだけの味。だから、伸坊さんには海苔弁の匂いとオールデイズが分かちがたく沁みこんでいるし、早弁の高校生は一食のありがたみを腹にひたすら詰めこんだのである。わたしは、母がアルマイトの弁当箱をハンカチでぴちっと包んだ丸い結び目を条件反射で思いだす。ひさしぶりの海苔弁を食べていると、自分の記憶に向き合う感じがうっすらとある。記憶もいっしょに食べているから、ひさしぶりの海苔弁はふかぶかとおいしい。
二〇一三年秋
(「おしまいに」より)
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