飲食店のことや外食での食べものについて書いたり編集する、という仕事が生まれたのは、タウン誌やグルメ誌が出回るようになった80年代前半あたりだろうか。
どこでどんな商品やサービスがいくらで買えるかの情報。政治や事件やプロ野球のことなどではなく、「消費にアクセスするための情報」に特化したのが、タウン誌やグルメ誌をひっくるめての「情報誌」というものである。「消費」という冠が取れて「情報誌」なのがまさに「消費社会」を謳歌する時代を物語っているようだ。その情報誌が飲食店の食べものやお酒を扱いだしたのは、順番からいうと映画やコンサートやイベントの内容やスケジュール、服やスニーカーや時計といった商品が主要コンテンツになった後だ。
わたしは街の飲食店が情報誌に掲載されることが嚆矢とされた時代から、まさにそのような仕事に長く携わっている。けれどもグルメライターとして星付きレストランはすべてチェックしたとか、地元関西のラーメン店を300軒まわったとかではまったくない。
また「フードジャーナリスト」あるいは「グルメ評論家」といったような肩書きでものを書いたりすることもない。それは何だか面映ゆいというか、世間に申し訳ないというか、ちょっと恥ずかしいことだと常々思っているからだ。そのような肩書きを借りて「わたしの書く『食』の記事は消費のための情報ではないです」とエクスキューズしたところで、実際に取り扱って印刷媒体誌面やHPのサイトに掲載したコンテンツは、自分が店に行ってそこで商品となっている食べものを消費してきて、それを書いたものに違いない。食べたあとに「これは仕事だ」とばかりに領収書をもらって帰ることもある。普通の職業人がその仕事の収入でもってメシを食べるというところからするとかなり変だ、というか「違う」のだ。
平松洋子さんが書く食べものについての文章は、それが飲食店を訪ねて食べたそのままのことがらなのに、他の人が書くものとは完全に一線を画している。端的に消費情報ではないのだ。それを可能にする文章や文体のアクロバシーは「食べものについて書くこと」のある種の自己意識からきているとわたしは思っている。誤解を承知で言えば「食べたことを書くことを仕事にする」ことにテレたり韜晦したりすることがあるかないかだ。
そのうえでこんなことを言うと「やめてください」と平松さんに叱られるかも知れないが、平松さんは相当の「食通」であると思うのだ。グルメは「消費者」であって食通は「生活者」の範疇だ。
おいしいものを求めてあっちこっちと食べ歩くことや、いつもお金と引き替えに人に何かをしてもらおうといった消費者的スタンスは、それを下支えする情報リテラシーに左右されがちで、だからこそ大量なグルメ情報を必要とする。食べログなどで見られる、店に対する消費者同士のある種のユーザー的連帯はその極北ではないかと思う。
けれどもそれらグルメ情報は、どんなところに行っても必ず良い店に入って、これまた必ずおいしいものを食べているご機嫌な実生活者の前では無力だ。
一品を頼むと、ごはんがついてくる。おじぃは「みそ汁」。わたしは「ヘチマみそ煮」か「すきやき」か悩みに悩んだすえ、えいや! と「すきやき」。沖縄ですきやきを食べたことがなかったから冒険にでてみた。K田青年は果敢に攻めこみ、中身が謎のまま「Aランチ」。
最初におじぃの「みそ汁」がやってきた。うわあ。目を見開く。この量! 丼鉢になみなみ、豚肉、豆腐、青菜、レタス、卵。小鉢はクーブイリチー(昆布の炒めもの)。ごはんとたくあんが膳にのっている。自分が食べるわけでもないのに、滋養いっぱいの丼風景がうれしい。隣の席のおじさんふたりも、熱い「みそ汁」をやっつけている。
わたしの「すきやき」が来た。うわあ。やっぱり驚きの声が出た。でかい平皿に牛肉、豆腐、青ねぎ、白菜、しらたき、生卵一個。ごはんをおかずに、わたしも元気にやっつけます。
三番めにK田青年の「Aランチ」が運ばれてきたら、あまりの満艦飾っぷりに言葉がでなかった。垂見おじぃも苦笑い。特大プレートにもりもりの風景を見よ。牛肉と玉ねぎ炒め。豚肉のカツ。ささみフライ。さんまの筒切りの素揚げ。ポテトフライ。ポーク。オムレツ。ウインナー。レタス。ごはん。お椀に沖縄そば入りの汁――牛・豚・鶏すべて集合、夢もカロリーもおおきくふくらむAランチ豪華絢爛八百円! 青年三十歳は深呼吸をひとつ、微妙に緊張のおももちでフォークを握った。(106ページ)
ここなどはものすごい。というかほとんど何も(内面を)書いていない。なのに一気にその地平が伝わってくるのは、平松さんの自己意識がその「場所」に溶け込んでいるからだ。達人の技芸である。
沖縄に着くや「すずらん食堂」に行って、悩んだ末「すきやき」を注文して、皆が「うわあ」と歓声を上げるのだ。食通は自分および一緒に食べる人の味覚を変容させてしまう。つまり「おいしい口」にしてしまうのだ。
確かにこのように書く平松さんの筆力は相当なもので、そこいらの書き手が及ばない腕前と芸でねじ伏せてしまう力があるが、その根底にあるのは「人が食べること」と「その街そのものとしての店」に対しての鋭い視点がある。その鋭さとはもちろんそれに対しての優しさである。評価とか査定とかの逆のベクトルだ。
この『ステーキを下町で』は同シリーズ前作の『サンドウィッチは銀座で』に比べると、わたしが日常に飲み食いする大阪の店がなく(少し残念)、その代わりに京都のうどん屋さんがたくさん出てくる。確かに真冬のうどんは、大阪でなくて京都だ。その土地独特の「かけがえのなさ」の積分こそが「おいしさ」なのであるが、それらはものすごい変数群でむちゃくちゃに錯綜しているから容易にデータ情報化、記号化できない。
うどん屋「やまびこ」での腰の曲がった小柄なおばあさんとその娘と思しき60がらみの女性の会話はこうだ(204ページ)。
「先々代のときやったかな、むかしようここに来たんや」
「よかったな、また来られてなあ。愛想がええ店やな」
「ほんまや。ああなつかしな。ええ味や」
「おばあさん、ゆっくりゆっくり食べてや」
また、近所に下宿してた学生のことを、「てしま」のおかみさんは、
「一日きいひんと、ちゃんとごはん食べてんのかなあと心配になってねえ」
と回想する(206ページ)。
「皿の上だけで星をつける」などと言い訳がましいことを言って京都・大阪版をつくったのがミシュラン・ガイドだが、相当に苦労し無茶をした跡がある。なぜなら京・大阪の店としての「うまいもん屋」は、店が料理やサービスを提供し、客がそれを消費するという一義的、一方向的な関係性ではなく、うまいもん(皿の上の料理)+屋(店や街としての空間自体)の双方がコミュニケーション的に相互嵌入して成り立っているからである。
平松さんはそのあたりを熟知し、「皿の上」からどうしようもなくはみ出したり滲み出たものこそを「かけがえのないもの」としていとおしんで抽出している。正確極まりなく記された京都弁の会話文からは、京都を長く生きてきた女性の微妙なイントネーションまで伝わってきて、映画より映画みたいだ。
わたしはずっと関西の街や店と差し向かう仕事をしている関係上、「大阪でてっちり食べたいんですが」とか「4人で神戸の広東料理を」とか、他所からの人に訊かれることが多い。そんなときに優先するのは知り合いの店である。親戚の料理人や幼なじみの板前ならベストだ。そういう場合は、一見なのにまるで旧知の友人のようにもてなしてくれるし、客側も星や評価やグルメ情報など気にかけなくなる。
けれども「串カツ二度づけお断りをやりたいんだけどどこがオススメ?」とか「いま心斎橋でお昼をたこ焼きにしたいんだけど知らない?」と言われると困ってしまう。串カツやたこ焼きは「どこがおいしい」というものではないからだ。それらは市場に行って入口で見かけたり、飲み屋街を歩いて出くわしたり、たまたま神社の祭りや寺の縁日で店が出ていたり、そういう類の「街の味」なのであるからだ。いうなればそれぞれの商店街や横丁の大人の駄菓子のようなものだから、どこでもしみじみとうまい。
ところがそれぞれの串カツやたこ焼きは、グルメ情報として扱われカタログ化された時点で、「場所」と切り離されてしまうから「B級グルメ」などといったとても味けないインデックスにぶら下げられることになる。串カツやたこ焼きさらにうどんという「食情報」のカテゴリーを広げたつもりが、結局底が浅くなってしまっているのだ。
赤羽の午前中からやってる居酒屋とスナックをハシゴしたことを書いた「朝の大衆酒場、夜はスナック」(65ページ)は安酒場の話であるが、店と客の地域社会があって働く社会があって、そこを通り抜けたあとにこそ消費社会へのアクセスがあるというプロセスを丹念に描いている。
平松洋子さんの書く「食の場所」は、エッセイ、紀行文、ノンフィクションあるいは食文化評論といったジャンルにカテゴライズしようがない。いつも独特であり疾走感があり、それが現在進行形の大衆文学の可能性を感じさせてやまない。
ステーキを下町で
発売日:2015年11月20日
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