立党宣言も綱領もない寄せ集めの政党であるとしても、政権を取る以上は個別の政策に先立つ上位概念として党の基本理念がなければならないはずだ。政権を取ってから理念を考えようなどということはあってはなるまい。しかし、今日の日米関係の悪化や二〇一〇年度予算編成の体(てい)たらくを見ていると、民主党が基本理念を持たないまま政権を舵取りしているのは明らかだ。
沖縄の米軍普天間基地の移設先という局所的な観点が、日米の安全保障関係の全体を振り回すというのでは順番が逆さまだ。子ども手当のばらまき方を見ても、社会保障制度のあり方は一見、北欧型のように見えるが、本気でその方向に日本社会を持って行くのかどうかも定かではない。消費税率引き上げ問題から逃げたままの「高福祉・低負担」路線は持続可能ではない。
この政権は富を配分することには夢中になっていても、配分すべき富をどう獲得するかには全く考えが及んでいない。首相が貧乏の中から生まれ育った首相なら、そういう発想を持つに至るきっかけがあるはずだが、あれだけ恵まれている鳩山由紀夫首相の場合、もしかしたら富は天から降ってくるものとでも思っているのではないか。
日本人は汗と努力でかろうじて世界第二位の経済力を維持してきた。それを忘れた瞬間に日本の凋落(ちょうらく)は避けられないものになる。まともな成長戦略のない民主党政権は国民を鼓舞する役割も果たしていない。
第三に「政治主導」が大事な概念のようにまかり通っているが、やっていることは意味不明だ。専門家集団たる官僚と話をしない、決定権を委ねないと力んで政治家が些事(さじ)にまで手を出す。仕事のほんの一部は政治主導になっても、残り九割は手が回らず、結局は官僚が後始末しているのが実相だ。
選挙で選ばれる政治家は官僚を召使のように扱っていい、と勘違いしているらしい。政治家が全員、知的水準が高く、常に公平で詳しい専門知識を持っているとは限らない。個別政策を巡る知識と能力は官僚の方が勝(まさ)っている。政治家の役割は全人生と全経験を踏まえ、大きな判断を下すことだ。
一方、民主党の国会議員一人ひとりの責任はどうなっているのか。昨年末の予算編成のヤマ場に小沢一郎幹事長に連れられて議員が百数十名も海外視察に行ってしまった。与党議員が政策決定に関与せず、小沢氏だけが物事を決めるというのは、民主党がどうも民主的ではない証(あか)しにも思える。
名前とは違い、一部の人物に権力が集中している。議員を国民の代表とか、地域の声を吸い上げる役割より、採決の時だけ必要な「数」としてしか考えていないのではないか。憲法上の三権分立だけでなく、すべての政党の内部が民主的に運営されることが権力の分散を担保する大前提だ。
戦後民主主義の中で最も非民主的かも知れず、未熟としか言いようがない民主党政権をこのまま長続きさせてはいけない。本書を書きあげた今、私はそう決意している。
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