早いもので『口語訳 古事記』という本を出して10年が過ぎた。すると区切りよく、古事記編纂1300年の節目の年がやってきた。その間に『古事記講義』を出し『古事記を旅する』を出して、いずれも文春文庫にラインナップされた。それに加えて他社からは、『古事記のひみつ』(吉川弘文館)とか『古事記を読みなおす』(ちくま新書)とかを出した。振り返ってみるとこの10年、古事記を食い物にしてきたようでいささか面はゆい。おまけに近ごろでは古事記「序」に書かれている内容はあやしく、古事記は和銅5(712)年に成立したわけではないと声高に吹聴しながら、編纂1300年関連の企画や催しには頻繁に顔を出す。
とにかく始末が悪いやつだ、そんなふうに思われているかもしれないと感じつつ、1300年に便乗するかたちでまたもや古事記に関する本を出した。『あらすじで読み解く 古事記神話』という正真正銘の入門書である。
イザナキ・イザナミの出現からはじまり、初代天皇カムヤマトイハレビコの誕生までを語るという共通性を持ちながら、古事記と日本書紀とでは、その神話の中身はまったくと言ってよいほど違っている。もっとも大きな差異がみられるのは出雲神話の扱い方で、古事記では、オホナムヂを中心とした出雲の神々の冒険と地上世界(葦原の中つ国)の統一を語ることに神話全体の3分の1もの紙幅を費やしている。それに続く、天空世界(高天の原)を領有するアマテラスが、地上を自分の子孫が治める国にしようとして遠征軍を派遣し、オホクニヌシに譲渡を迫る場面いわゆる国譲り神話を加えると、古事記神話の4割が出雲の神々の栄光と敗北を語る物語になる。
それに対して日本書紀では、出雲の神々の神話をほとんど語ろうとはしない。そうでありながら、オホクニヌシに国譲りを迫る場面は語られるので、日本書紀の展開はとても不自然な印象を与えてしまう。しかも、神話としてはまるでおもしろみがない。
両者はまったく別の作品だと言ったほうがよいのだが、従来、自己批判もこめて言うと、古事記と日本書紀とで出雲神話の扱いがこれほど大きく違う原因や理由を正面から論じる研究はなされてこなかった。しかも、放置するだけならまだしも、「記紀」神話という呼称を用いて古事記と日本書紀とを合体させ、両者を抱き合わせるかたちで神話を論じてしまったために、出雲神話は古事記にしか存在しないという当然すぎる事実が消されてしまったのである。そこには、近代の神話研究における、ある種の作為とごまかしがあったと考えざるをえない。