『あなたの経験や技能などの「能力」を、あなたにはない誰かの「能力」と交換いたします。まずはご来店ください』という文句でお客を誘うのは「ばくりや」。
「ばくる」という言葉については、本書において、一度しか説明されていない。一話目の「逃げて、逃げた先に」の一行だ。
『ばくる、とは三波の地元言葉で交換することを意味するのだった。』
我々北海道民が、なんの躊躇いもなく使う日常語のひとつ「ばくる」。使用例のひとつとしてはたとえば、映画館で座高の低いルカちゃんの前にちょっと頭の大きな人が座っていた場合、比較的座高の高いワタシに「姐さん、ちょっと席ばくってくんないべか」という具合。あるいはカラオケボックスで、頼んだオレンジジュースが思ったよりも酸っぱかったとき「わぁ、これ酸っかくて飲めんわ、ルカっちのお茶とばくってくんないべか」などと使う。ばくってくれ――と言った場合、なぜなのか滅多に「いやだ」という反応がないのは、ばくれる程度のことしか頼まない、面倒くさがりの道民気質かもしれない。
話を本書に戻そう。
こぢんまりした商店街の一角にある「ばくりや」は、ひと目見ただけでは店舗かどうかもわからない平屋の洋館。そこにやってくるのは、自分の身に備わった「厄介な能力」を手放したい人間だ。生まれ持った特殊な能力が、本人にとって喜ばしいこととは限らない。本書はその力がもたらす厄介な日常を、まるで扇を広げるような文章で差し出してくる。
「女に異常に好かれる」「移動先で必ず荒天になる」「就職先が必ず潰れる」「ちょっとしたことでも泣くことができる」「時速一五六キロの球を投げることができる」
使い方次第では羨ましい特技や能力も、本人にとっては手放したいものへと変わってしまう。物語それぞれの視点人物たちは、みな自分の力を神様からのギフトとは思えないし、うまくゆかない日常を少しでも変えたくて「ばくりや」を訪れるのだ。
彼らは店頭で渡された用紙に「住所、氏名、電話番号、生年月日、交換対象としたい技能・経験・能力」を書き込む。ただ、能力と能力の相互移植なので、白血球と同じように「型」が合わなければ拒絶反応が起こる。手放したいものの代わりにどんな能力や技能がやってくるのか、本人には分からないという。
「ばくりや」の店員(?)は彼らに念を押す。
『良い能力を提供したからといって、それに見合うものがもらえるとは限りませんよ』
それでもいいから、と思うほどに「ばくりや」を訪れた客たちは切実に自分たちの「力の喪失」を願っている。
晴れて厄介な能力を手放せた彼らは同時に、誰かが手放したいと切に願った能力を身につけてしまうのだが、その力もまた「厄介」だったり「まさか」だったりする。
動物に異常に好かれてしまう能力を手にした「みんな、あいのせい」では、考え得るかぎり最も悲惨な結末が待っている。「好き」は「嫌い」よりも、もっとずっと罪深いという人の心の真理と落とし穴を、恐ろしいほど鋭角から攻めた一本だ。
時速一五六キロの球を投げるピッチャーが、自分が女に教え込んだ性的技術を手に入れる「狙いどおりには」では、コントロールの悪さを皮肉たっぷりに描く抱腹絶倒のラスト。
同じ「なんなんだよ、もう」の結末を鮮やかに書き分けられる能力は、おそらく著者の苦しみの結実で、それは手放すことが不可能な「心眼」なのだろう。つき合うしか、ないのだ。
終章の「きりの良いところで」が、この物語が一冊でひとつのお話だったことを示す。与えられた能力を呪ったところでそれは自分の体の一部として長く息をしていて、大切にする方法も、どこかにあるはずなのだ。
読了後、「鋭い心眼」と「狙った女と仲良くなれる特技」をばくるのは、傍目には愚かなことなのだ、と気づかされる。
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