――永徳は若くしてその才能を開花させ、父親である松栄の技量を追い抜きます。やがて狩野派の棟梁にもなるわけですが、自分がほんとうに描きたいことと、狩野派の棟梁として守っていかねばならぬこととの葛藤が常にありますね。
山本 その葛藤が永徳の一番の悩みだったと思います。ほんとうは自分自身を発露させる絵を自由に描きたいけれど、狩野派の棟梁としては「端正」という画風をあくまで守らなければならない。すべての絵を自分ひとりで手掛けたいけれど、安土城、大坂城、聚楽第などの壮大な御殿の装飾などの場合は、狩野一門での作業をせねばならない。下手な弟子に任せざるをえない場合も当然あったはずです。芸術性を迸(ほとばしら)せることと工房を監督・運営することの間で、永徳にはフラストレーションがたまり、大きなストレスに苛まれたのではないのか、と僕は想像しました。
――物語の中で永徳は長谷川信春(等伯)を狩野派から破門し、後には等伯の仕事の妨害までします。
山本 永徳は誰よりも等伯の技量を理解でき、それゆえにその才能に激しく嫉妬したと思います。永徳にしか描けない線はもちろんあるけれど、能登時代に等伯が描いたような繊細な仏画は、永徳には描くことができない。その嫉妬と煩悶がとても大きかったと思います。
この物語を書く前は、映画の「アマデウス」になぞらえれば、永徳が天才的なモーツァルトで、等伯が凡庸なサリエリだと思っていたのですが、書き始めてみると、それが逆であることに気付きました。等伯は「松林図」を描く前に、すでに天才的な仏画を描いていた。永徳も天才ではあるけれど、狩野派の棟梁として凡庸な絵もあえて多く世に送り出さなければいけなかった。その運命は、まったく正反対です。
――物語のラストシーンで永徳は、これまで積み重なった抑圧や懊悩を解き放つようにして、いっしんに絵を描きます。 絵を描く「業」がそのまま表れているようで、圧倒的でした。
山本 結局僕は天才絵師・狩野永徳の身悶えが書きたかったんですね。絵師として、どうすればほんとうに自分が満足できる絵を描くことができるのか、という葛藤を。
僕はこれまで職人の事を描くことが多かったのですが、職人の場合は、自己を表現することより、技術や製品の質のことに重きがおかれます。今回は職人ではなく、芸術家としての永徳、その人物像と内面を描くことに重きを置いた新しい試みをしました。狩野永徳のことを書きましたが、さまざまな芸術家の自己表現を探る試みは、これからもやってみたいと考えています。
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